第1回授業深掘りセミナー(その1)
- 公開日
- 2015/10/19
- 更新日
- 2015/10/20
仕事
第1回授業深掘りセミナーが行われました。
1つ目の模擬授業は授業と学び研究所のフェローで岐阜聖徳大学教授の玉置崇先生の道徳の授業でした。
玉置先生は自ら新しい授業に挑戦すると宣言して模擬授業を開始しました。題材は「手品師」です。売れない手品師が、さびしい子どもとの手品を見せるという約束を優先して、大舞台に立つという夢をかなえるチャンスを断るという話です。この題材を使った授業の展開は「手品師は子どもとの約束を優先したが、あなたならどうする?」と自分の判断を考えさせたり、「友人からの大舞台の誘いを受けた時の手品師は、どんなことを考えただろう?」「子どもとの約束を守って手品をしている時の手品師は、どんな気持ちだろう?」と手品師の気持ちに寄り添って考えさせたりするものがほとんどです。大舞台へのチャンスが来たところで話を止めて、「あなたらどうする?」と問いかける展開もよく目にします。
それに対して玉置先生は、最後まで資料を読んだあと、自分がそうするかどうかは別にして、手品師がとりえる行動にはどんなものがあるか、「ありったけ」書き出すように指示しました。「ありったけ」といった言葉を使うところが玉置流です。「たくさん」ではなく「ありったけ」ということで、子どもによい意味でプレッシャーをかけ、集中力を上げるのです。
一人一つずつ発表させます。「自分なら」とか、「どうあるべきか」といった条件がないので、子ども役からは無茶な意見を含め多様な意見が出ます。とはいえ、教室で見る子どもたちの意見と同じく、何とか自分の夢を実現させることを優先して、その上で約束を破ることになる子どもに対してどうフォローするかを考えるものがほとんどです。玉置先生はそれらを一つひとつ板書していきます。17ほどの意見が出てきました。この展開はいわゆる「とりえる行動の選択」の授業のように見えます。この後、よくある「あなたならどれを選ぶ?」と問いかける展開だと話が発散していくのではないかと思いました。それでは面白くありません。ところが玉置先生は、その後、この中から「自分なら絶対にしない」というものを(複数)選ぶように指示しました。これには意表を突かれました。「自分ならどうする?」では、他者の意見に、「それもあるかな」「自分はしないな」と第三者的に見てしまうところが、「絶対にしない」という条件を突きつけることで、否応なしに自分の立場をはっきりせざるを得なくしたのです。
子ども役に絶対取らない行動を選ばせた後、挙手で確認していきます。意見が分かれる行動がいくつかあります。玉置先生は「申し訳ないが自分に選ばせて」と「代わりの人に行ってもらう」という行動を取り上げて、「絶対にしない」理由を聞いていきました。「代わりはあり得ない」ときっぱりとした言葉が出てきます。「縁があって自分がやることを約束したのだから」といった意見を受けて、考えが変わったかどうか確認します。変わった子どもを評価し、子どもの考えを受容しながら他の意見も引き出します。意見に対して、「納得できる?」と全体に問いかけ、「代わりはあり得るのか、ありえないのか?」と焦点化していきます。こういうどの教科にも共通する授業技術もとても参考になります。
「約束は守れないことはある」「子どもはたださびしかっただけなんだから、その手品師でなくてもいい」といった意見も出てきます。玉置先生は、それぞれがよく考えていることを評価しどの考えも認めていくので、子ども役に迷いが出てきます。そのことが、結果として深く考えることにつながりました。意見がある程度出たところで、隣同士で意見交換させます。明確に意見が違っていたペアの一方を指名して、どんなことを話したかを聞きました。指名もその意図がはっきりしています。ここで時間となり、子ども役がいろいろな視点で話してくれたことを評価して授業は終わりました。
続いては、このセミナーの売りの一つの「深掘りトークセッション」(参加者の斎藤早苗さん命名)です。この授業についての進行役は私が務めました。新鮮な気持ちで考えようと指導案を見ていませんので、どのように進めていくかの方向性は事前に決めていません。いつものように、授業を見てのぶっつけ本番です(自分的は、このライブ感が楽しいのですが……)。
最初に、玉置先生にどこが挑戦だったのかを話していただきます。改訂学習指導要領の道徳の解説で、「・・・答えが一つではない道徳的な課題を一人一人の児童が自分自身の問題と捉え、 向き合う『考える道徳』、『議論する道徳』へと転換を図るものである」とあるのを受けて、「考える道徳」、「議論する道徳」への挑戦ということです。子ども役が、「考え」「議論」したという点では満足のいくものだったが、時間もなかったので最後どのようにまとめていけばよかったのかを皆さんと考えたいということでした。パネラーは、伊藤彰敏先生(一宮市立尾西第一中学校教頭)、神戸和敏先生(授業と学び研究所フェロー)、野木森広先生(岩倉市立岩倉中学校校長)、和田裕枝(豊田市立小清水小学校校長)です(五十音順)。いずれも授業の達人として定評がある方ばかりです。何を振っても答えてくださるという方々なので、安心して進めることができます。
まずは、授業を見ての感想から聞いていきます。野木森先生は、このとりえる行動に対して「絶対やらない」ものに焦点を当てるという方法は、子どもが議論するにはよい方法だと評価しました。その上で、議論はしていたのだが、最後に何らかのまとめの場面をつくって道徳としてのねらいを押さえたいという意見です。この題材は「誠実」をテーマに授業をすることが多いのですが、確かにこの授業ではそこの部分がはっきりしないように思えます。続いての和田先生からは否定的な意見は出ませんでしたので、その次の伊藤先生はあえて飛ばして、神戸先生にお願いしました。神戸先生からは子どもが安心して自分の意見を話せるために使っていた玉置先生の授業技術に触れていただけました。若い先生とってはとても大切なことです。ここで伊藤先生に戻ります。伊藤先生は道徳の授業としてはこれではダメではないかと反対意見を出されました。肯定的な意見が続くと議論が深まらないので、反対意見がほしいという気持ちを伝えるために、最後に回したのですが、ちゃんと意図を汲んでくださいました。議論して互いの考えを知ったからといって道徳的に何が変わったのかはっきりしない。これでは道徳ではないという考えを示されました。玉置先生からは、子どもたちが先生の言ってほしいと思っていることを予想して、決められたゴールに向かっていくような道徳の授業が多い中で、こういった子どもたちが考え議論する授業は意味があるという主張を展開します。白熱した展開になります。玉置ゼミの学生も参加していましたが、日ごろと違う先生の姿にはびっくりしたかもしれません。別に事前に打ち合わせしていたわけではありませんが、皆さん役者なので盛り上げようとバトルを演出していたのです。
とはいえ、このままで終わるわけにはいきません。そろそろ着地点を探すことが必要です。模擬授業で玉置先生は意見が違うペアの一人を指名しましたが、そのもう一人の方に話し合った感想を聞くことにしました。考える、議論することを通じてどのような変容が起こったのかを知ることで、道徳としてどう進めていけばよいのかのヒントが出てくると思ったのです。出てきたのは、意見が違うことを否定的にとらえるのではなく「いろいろな考え方がある」という多様性を認める考えと、「行動が違っても、その底には同じ気持ちがある」という共感でした。期待以上の素晴らしい言葉が出てきました。まず前者に関連して、神戸先生に、「多様な考えを子どもたちから引き出すために、具体的にどのようなことを意識すればよいのか?」と質問しました。その前に和田先生に一言、「次、あてますからね」と声をかけておくのを忘れません。神戸先生から、日ごろから子どもたちが安心して発言できるために、教師が子どもの言葉を受容し、ペアやグループ活動を活かして子ども同士が互いの発言を認め合えるようにすることの大切さを説明していただきました。
さあ、ここで和田先生の出番です。ずばり、「この後、この授業をどう進めますか?」と聞きました。和田先生はその質問をしっかりと予想されていました。「やっぱり」と、「行動は違っても、手品を見せる約束した子どものことを思いやっていることが共通にあるので、そういった部分を子どもたちから引き出し、共有することで道徳としてのねらいにつなげることができる」と誰しもが納得する進め方を示していただけました。
「とりえる行動」を子どもたちからできるだけたくさん引き出し、それに対して「絶対しない」ことは何かと焦点化することで、子どもたちに当事者意識を持たせて議論を焦点化する。「考え」「議論」させることを通じて、多様な考え方の底に「共通」する、「誰もが大切にしていること」を引き出すことで道徳としての「ねらい」をクローズアップする。このような新しい道徳の授業の進め方を模擬授業とトークセッションを通じて提案することができたと思います。阿吽の呼吸で、私の意図を読んで対応してくださる先生方のおかげで、何とか私の役割は果たせたようです。
後で振り返ってみると、玉置先生が中途半端な形で授業を終えたのはこのようなトークセッションの展開を意図してのことだったと思います。見事に玉置先生の掌の上で泳がされていたようです。
この続きは、明日の日記で。