学生の会話から考える
- 公開日
- 2012/09/20
- 更新日
- 2012/09/20
独り言
昨日は東京へ出張していました。昼に外で食事をしたのですが、隣の席にいた学生たちの会話がとぎれとぎれに耳に入ってきます。
「カンニングが見つかって・・・」
「えっ、全科目0点じゃないの・・・」
「それが、教授が公にせずに済ませてくれて、1科目だけで済んだ・・・」
どうやらその中の一人が試験でカンニングをしたところ、教授が公にすると全科目0点になるので、その教科を0点にするだけにとどめ、内々で済ませてくれたということのようです。
驚いたのは話の内容よりも、話している学生の姿でした。悪びれるようすもなく、ごく普通に話しています。何という学生だろうとちょっと怒っていたのですが、少し落ち着いてみると、学生を怒ってばかりはいられないと思うようになりました。
堂々と話ができるということは、「恥」ではないということです。カンニングがばれると全教科0点になるというリスクを負って挑戦して失敗した。単に取りえる行動の一つとして選択した結果でしかないということです。
「カンニングをする」ということは、試験の「結果」が問題であって、その「過程」はどうでもよいと考えているということです。
人に迷惑をかけたわけではない。社会で求められているのは結果であり、その手段は問われていない。そう思っているのでしょう。今の社会の風潮だと言ってしまえばそれまでですが、彼の受けた教育にも問題があったはずです。
一番に思い浮かぶのは、道徳です。どのような道徳教育であればよかったのでしょうか。「悪いことをしてはいけません」「ルールは守りましょう」というだけでは意味がありません。悪いことをする、ルールを破る子どものほとんどは、それが悪いこと、ルール違反だと知っています。「何が悪い」という子どもでも、それが世の中では悪いこととされていることは知っています。正当化しようとしているだけです。
「道徳」で育てなければならないことは、「正しく判断」できる力です。ルールを破りたいと思った時に踏みとどまれる子どもです。
とはいえ、具体的にどのようにすればいいのでしょうか。自分の行為が他者とつながっている、他者に影響を与えるということを実感させることが大切だと思います。自分がルールを破ることで他者に迷惑をかける、不快な気持ちにさせる。こういうことを経験させ、相手の気持ちになって考えることができるようになれば、自己中心的な考えで行動することは減ってくるはずです。
ある状況に対して自分ならどうする、他者はどう考えて行動するか考える。一つの行動に対して、友だちの考えや思いを聞き合う。ふだんの学校生活でも、自分の行動が他者にどういう影響を与え、どういう感情を引き起こすのかを意識できるような場面をたくさんつくる。「自分はこうしたい、しかしまわりはそれを許さない」といった葛藤場面でどう行動すればよいかを身につけさせるのです。
では、先ほどの学生はどうなのでしょうか。悪いことではあるけれど、リスクは自分が負うだけで他人には迷惑をかけない。そう答えそうな気がします。アンフェアな行為をするということは、他者に対してどういうことを意味するのかを意識できていないように思います。他者と深くかかわり合う経験が少なかったのかもしれません。
もう一つの思い浮かぶのは、子どもたちの消費者的行動です。できるだけコスト(労力)をかけずに、早く結果を得たい。そういう風潮が広がっているように感じます。教師が答や結果だけを評価し、課程や方法をきちんと評価することをしていないこともその傾向に拍車をかけているように思います。注意してほしいのは、やったこと、努力したことをただほめるというのは評価ではないということです。認めることは大前提として、その上でどうすればよりよいのかを考えるために評価があります。結果がともなう努力をすることが大切なのであって、いくら努力しても結果が出なければ嫌になって安直な方法に走ってしまいます。
また、子どもたちが過程を楽しむ、楽しめるような工夫も必要だと思います。学ぶことは楽しい。そう思えることが一番ですから。
先ほどの学生は、学ぶことは楽しいという経験をしてこなかったのでしょうか。もしそうであれば、それは保護者を含め、彼の教育にかかわった者の責任だと思います。
歳をとってくると、「最近の若者は・・・」と批判をしがちになりますが、彼らをそのようにした責任の一端は私たちにもあることを忘れてはいけません。そのような若者をつくらないためにどうしなければいけないのかを真剣に考えることが、歳をとった者の責務だと思います。
学生の会話からこんなことを考えた昼時でした。