日記

中学校で授業アドバイス

公開日
2012/10/25
更新日
2012/10/25

仕事

昨日は、中学校で授業見学と授業アドバイスをおこなってきました。

廊下から授業を見ていて学年のようすの違いがおもしろく感じられました。
3年生はどの学級も授業に集中していました。進路意識も高まっているのでしょう。問題を解いたり、まとめたりといった個人作業でも非常によく集中していました。廊下から授業を見ている私たちに気づいても、すぐに自分の作業に戻ります。わからなければ男女を問わずまわりの友だちに聞くこともできます。子どもたちがよく育っているのがわかります。社会の授業では、最後に授業者が話をしている場面で、子どもがとても柔らかい表情でしっかり聞いている姿を見ることができました。この学校が目指している子どもの姿がよくわかる場面でした。

2年生は合唱コンクールをひかえての、担任による話し合いなどの事前の活動を見ましたが、学級による子どもたちのようすの差が大きいことに気づきました。私たちの姿に気づいて次々にこちらに注意を向け、それがなかなかおさまらない学級。一部の子どもだけが集中を失くしてこちらにずっと注意を向けている学級。すぐにおさまる学級。いろいろでした。中でもある学級の子どもたちは私たちにほとんど注意を向けず、自分の作業、友だちの話、担任の話に集中していました。しかも、硬い表情ではなく柔らかい表情でです。友だちと話し合う場面では、一生懸命自分の思いを友だちに説明しています。聞く側も身を乗り出して聞いています。自分の思いをしっかり受け止めてもらえた女生徒は、真っ先に手を挙げてみんなに話をしました。学級全体に安心感があふれています。いつまでもその場にいたいと思わせてくれる素敵な学級でした。ここにも、この学校が目指す子どもの姿がありました。

1年生は、良くも悪くも教師が何を求めるかでした。教師が話している場面でもほとんどの学級は子どもが板書を写していました。作業中に教師が補足説明をしても聞いていない子がたくさんいます。子どもたちの動きはバラバラな学級がほとんどです。表情も乏しく感じます。ところがある学級の社会の授業では、笑顔でしかも集中して授業者の話を聞いています。全く違う姿です。授業者は自分の言葉を子どもが理解できたか表情を見ながらじっくり間をとっています。教師の説明で子どもが受け身になりやすい場面ですが、ちゃんとコミュニケーションが取れています。後で授業者に聞いたところ、「この子どもたちは板書するとすぐに写そうとします。そこで、じっくり聞いて考えてもらいたいので板書せずに話をしました」ということでした。子どもに求める姿がはっきりしています。子どもは教師が求める姿を見せます。この学級の子どもが特別ではないのです。教師によって見せる姿を変えるのです。どのような姿を子どもに求めるか、もう1度学年全体で話し合ってほしいと思いました。

このほかにも素敵な子どもと先生の姿を見ることができました。
2年生の英語の時間、どのような内容かはよくわかりませんが、カードを使ったグループでの活動場面でした。一人の女生徒が仲間に入れずにじっとしています。この子はやりたくないのだろうか。気になって観察しているとちょっとカードに手を触れました。が、すぐに離します。どうやら、参加はしたいのだが内容がわからない、きっかけがつかめない、そんな感じです。少し間をおいて授業者がこの子に気づきました。すぐにその場へ行き少し話をして、隣の子どもにも声をかけました。そのあと、すぐに2人はペアで活動を始めました。子どもの困ったにうまく寄り添い、子ども同士をつないだ教師の動きでした。

3年生の数学の時間です。授業の開始から参加できない女生徒が一人いました。この子はやる気がないのだろうか。いつ授業に参加できるのだろうか。気になります。最初の復習の間は集中できていませんでした。しかし、次の練習の時に隣の男子の手元をちらちら見ています。どうやらその男子が解き終わったのでしょう。教えてくれるように頼んで説明をしてもらいました。その後は、教師の説明もしっかり聞いて、授業に参加し始めました。やる気はあったのですが、わからない、わかるきっかけがなかっただけだったようです。

子どもたちが授業に参加しないのは、やる気がないからだとは限りません。やる気がないと頭から決めてかからずに、子どもが参加できるきっかけ、手立てを考える必要があります。子どもの人間関係ができていれば、友だちとかかわる時間を与えるだけでも変わります。このことをあらためて気づかせてくれる場面でした。

授業アドバイスは経験3年目と2年目の数学の授業でした。1つは、3年の平行線で区切られた三角形の辺、線分の比の問題の練習。もう1つは1年の方程式の文章題への応用でした。
おもしろいことに2人の抱える課題はほとんど同じでした。授業がわかった子どもの視点で進んでいることです。比の問題では、わかった子に○:○=○:○という式を発表させて、それが成り立つことを確認し解いていきます。解答としてはそれでよいかもしれません。しかし、数学の問題を解けるようになることは、解答に納得することではありません。自分で解くためには、どの線分とどの線分に注目すればよいかを見つけることが1番大切です。この部分がすっぽり抜け落ちているのです。答案には書かれませんが、値がわかっている線分と求める線分で対応を見つける作業が最初にあるのです。同様のことが方程式の応用でもありました。食塩水の濃度の問題で、この塩の量とこの塩の量が等しいという説明からスタートしているのです。問題の中で等しいものを見つけなければ方程式は使えません。逆に等しい関係が見つかるから方程式が使えるのです。ここを意識して問題に取り組まなければ解けるようにはなりません。「濃度の問題は、・・・」「速さの問題は・・・」といった言葉を使うことも気になります。パターンで覚えなさいと言っているようなものです。これでは見たことのない問題は解けません。バリエーションが劇的に増える高校の数学ではつまずいてしまいます。

ところが、どちらの学級も子どもたちは実によい動きをします。問題を解くとき、わからない子どもは自分から友だちのノートを覗きこんだり、「ぜんぜんわからん」と聞いたりします。わからないことを隠したりしません。実によい姿勢です。いたるところで子どもがかかわり合っています。授業者が、子ども同士相談することを肯定的にとらえている証拠です。にもかかわらず、発表場面では、「できた人」と聞いてしまうのです。するとあまり手が挙がりません。かなりの数の子どもたちが解いているのにです。結局、挙手した子を指名して授業が進んでいってしまうのです。何ともったいないことでしょう。2人に聞いてみました。

「なぜ、手が上がらないのかな?」
「自分の答えに自信がないから」
「間違って、認めてもらえなかったら嫌だから」

うれしいことに、ちゃんとわかっています。そこに気づければ授業を変えることができます。

「どこで困ったか、教えてくれる?」
「何をやったか聞かせて?」
「どんなことを相談した?」
「だれの話でわかった?」
・・・

相談できる子どもたちなのですから、その内容を共有化すればいいのです。子どもたちの「困った」に寄り添えばいいだけです。友だちに「わからない」と言える子どもを育てるという、一番難しいところをクリアできているのです。ここからはそれほど難しくありません。きっと授業が変わってくれることと思います。

また、2年目の教師の板書は1年目よりも進化しています。色チョークを使ったり、式と式の間を埋める言葉が書かれたりするようになっています。次のステップは、何を強調するか、どんな言葉で行間を埋めるかです。式と式の間に書かれていた言葉は、「100倍」といった、何をしたかでした。目的と根拠がないのです。

「分数は計算が面倒だ」→「何がじゃま」→「分母」→「分母がなければいいな」→「分母とおなじ数を掛ければ消える」→「掛けていいの?」→「『方程式』は『両辺』に『同じ』ものを掛けてもいい」→「これは『方程式』だから『両辺』を100倍しよう」

こういう思考が働いています。これをどこかに残すのです。いつもこんなことを書く必要はありません。しかし、このことを全員が自分のものとするまでは、何らかの形で残さなければいけないのです。何をしたかしか残さなければ、「分数は分母を払う」と機械的に覚えてしまいます。式の変形で分母を勝手にはらったり、一方の辺にしか分数がなければその辺にしか数をかけなかったりといった間違いにつながります。こういうことを意識した板書に変わってほしいのです。

長時間の話になりましたが、まだ若い教科主任も、研修担当の先生もずっとつき合ってくれました。また、授業アドバイスに先立って、教務主任と研修担当の先生とも、彼ら若手をどう育てるかについて1時間ほど話をすることができました。若手を育てることにこれだけのエネルギーを使ってくれる学校はそれほど多くはありません。このような学校に勤務できる幸せを彼らもわかってくれると思います。まだまだこれからの先生方です。きっと、新しい1歩を踏み出してくれることと思います。

この日も、子どもたちと先生方の素敵な姿に出会え、とてもよい時間を過ごすことができました。いつものことですが、またたくさんのことを学ぶことができました。子どもたちと先生方に感謝です。