考えるべき課題が明確になっていく(長文)
- 公開日
- 2013/12/13
- 更新日
- 2013/12/13
仕事
昨日は中学校で授業アドバイスをしてきました。定期試験も終わり、保護者面談が終了したところです。この時期の子どもたちの様子がどのようなものか楽しみです。
学校全体としてはとても落ち着いていますが、2年生と1年生の子どもたちの様子がとても興味深いものでした。どちらも、子どもたちが授業によって見せる姿が違うのですが、その違いに特徴があります。2年生は、落ち着いて授業を受けるのですが、教師の説明を聞いてもよくわからなかったりすると話を聞かずに、まわりの子と相談する傾向があります。ある意味正しい判断です。授業に前向きであることと子ども同士の人間関係よいことの現れでもあります。とはいえ、決していい状況とは言えません。教師が一方的に説明することを止めて、相談している内容を全体で共有させて、子どもたちで課題を解決するような動きを取り入れたいところです。
一方の1年生は、教師が子どもたちにこうあってほしいと願う姿が明確な授業では、素直にそのような姿を見せます。顔を上げて教師を見て話しを聞いてほしいと思えば、そのようになります。ところが、教師が子どもに望むものを明確にしていないと、子どもたちは適当に自分で判断をします。話を聞くのに、下を向いていたり、板書を写しながらであったりするのです。授業規律を含めて、こうあってほしいという姿を学年全体で共有することが大切になります。また、わかりたいという思いはあるのですが、授業の途中で力が尽きる子どもが目立ちます。まわりの助けを借りながらでも、できた、やったという達成感を味あわせるようにすることが求められます。
若手を中心に授業アドバイスを行いました。
初任者の3年生の数学は、相似の活用の場面でした。以前と比べて、子どもたちとの対話を意識しているのですが、1人に発表させてすぐに説明をしてしまいます。また、どうしても1対1の関係になり、他の子どもにつなぐことはまだできません。また、数学の授業としては、この学習で何が大切か、どこがポイントかがはっきりしないものでした。授業者自身がこのことをきちんと整理できていないことがその理由です。教材研究をしっかりしてほしいと思います。子どもたちの意識が答を求めることに向かっていることも気になります。子どもたちの説明を聞いても根拠を明確にして説明しよういう気持ちが感じられません。授業者も、子どもの中途半端な説明に対して物わかりのよい教師となって、言葉を勝手に足します。根拠を明確にするための問いかけもしません。そのため、子どもたちは友だちの説明や答案に対して興味を示しません。2人の異なる解答を板書させている場面でも、どのようなことが書かれているのか見ようとはしません。よそ事をしているのです。授業者の解説を聞いて、補足された板書を写せば事足りるからです。指名されなければ直接授業に参加する必然性がないということです。
子どもたちを参加させる授業の進め方を工夫すること、教材研究をしっかりすることが求められます。
初任者の2年生の国語の授業は、子どもとの人間関係が気になりました。学級によっては、一部の子どもが指示に従えないようです。どのように注意をすればいいのか困っているように感じました。指示を徹底させようと、「3、2、1」とカウントダウンをするのですが、なかなか素早く動いてはくれません。指示を徹底する方法としては、カウントダウンはあまり勧めません。カウントダウンでは、できたかできないかのチェックになってしまいます。一度できれば、次からはできなかったというネガティブな評価か、現状維持です。ポジティブを意識するのならカウントアップの方が有効です。「何秒でできた」という評価を通じて、「次は○秒でできるといいね」「何秒進歩した」というように進歩で評価できます。子どもたちをポジティブに見ることができるのです。
「私と同じスピードで板書してね」と素早く書くことを促しますが、授業者が板書を始めても、子どもはまだペンも持っていません。授業者は子どもたちを見ないで板書しています。これでは、効果がありません。まず子どもたちが筆記の準備をしたことを確認してからスタートする必要があります。素早く書いている子どもを評価しなければ、指示しただけでは動きません。指示に対する評価をもっと意識する必要があります。
授業規律の徹底に関連して、Iメッセージを使った子どもへの注意の仕方を紹介しました。あなたの行動が私(I)にとって困ったものであることを伝えるという方法です。上手くいくという保証はありませんが、子どもたちとの関係がある程度できていれば、有効だと思います。
子どもたちとうまくいっているように見える学級にも落とし穴があります。活発に発言してくれる子どもの影で、参加しようとしない子どもが目立つようになっているのです。授業を妨害するような行動はとりませんが、授業者と積極的な子どもとのやり取りを横目に我関せずの状態になっているのです。「今の意見に対してどう思う?納得した?」というように、挙手しない子どもに参加を促す、わからなくても聞いていれば参加できる場面をつくる、そういうことが必要なります。全員を参加させたいという教師の姿勢を明確に伝えることが大切です。
また、国語の授業としては、課題の必然性を意識してほしいと思いました。説明文の単元でしたが、説明文であれば、筆者の主張・考えを正しく理解することが授業のゴールになります。筆者は自分の考えを正しく理解してもらうために、根拠や具体例を述べます。この段落で、何をねらってどのようなことを述べているのかという視点を与えれば、課題は自然と明確になってくるはずです。こういう視点を明確にして授業を組み立ててほしいのです。
笑顔は意識しているのですが、対応に困った時などはそのことが表情に出てしまいます。少し余裕を失くしているのかもしれません。冬休みにリフレッシュして、余裕を取り戻してほしいと思います。
初任者の体育の授業は1年生のマット運動でした。気になったのが、子どもが自分の順番以外の時に遊んでいたり、集中していなかったりすることです。開脚前転に挑戦しているのですが、ただ連続して実技をしているだけです。いったん活動を止めてその場で説明を始めます。子どもの視線が授業者に向く前に話しはじめます。説明が終わりさあ活動かと思ったところ、また説明が始まりました。活動することに意識がいった子どもは、集中力が切れます。すぐに説明が終わるかと思ったのですが、しばらく説明が続きます。一部の子どもの集中力は戻らないままでした。「勢いをつける」「手をしっかりとつく」といったポイントをいくつか説明したのですが、その確認はされませんでした。子どもたちの実技に対して、ポイントがきちんとできているかどうかはどこでも評価されません。明らかに上達した思える子どもが少ないことと関係があるように思います。互いに見あって、どこよいか、どこが上手くいっていないか聞き合うことが大切です。ただ活動すればよいという発想では上達しません。
集合の時の子どもたちの姿勢がバラバラなのも気になります。集合時にはどのような姿であってほしいかが明確でないということです。求める姿をちゃんと伝えないと、そのようにはなりません。そもそも、子どもたちに求めていないことが問題なのです。
体育の教師として子どもたちにどのような姿を求めるのかをもう一度自分に問いかけてほしいと思います。
講師の体育の授業は、2年生のハンドボールでした。4対3の練習でしたが、遠目に見ても子どもたちの視野が広く、コート全体を上手に使っているのがわかります。中学2年生としてはかなりレベルが高いと思いました。ハンドボール部が何人もいるのかと思ったのですが、1人しかいないということです。ちょっと驚きました。声をかけ合うことやアイコンタクトがしっかりできていて、パスがよく通ります。子ども同士の関係がよいことの現れでしょうか。授業者に確認したところ、指示は、「まずゴールをねらい、だめならパスをする」というものでした。その前の時間は3対2で、ポストを使ったプレーを練習したそうです。一つひとつの練習に対して、ポイントを絞ってきちんと身につけさせていると感じました。4つのゴールに分かれて練習をしていましたが、授業者はどこのプレーもきちんと見えるポジションで、全体をよく見ていました。話をして、子どもたちの様子をよく把握していると感じました。集団競技以外でも、子ども同士のかかわり合いを大切にするようにお願いしました。
2年目の先生の社会科の授業は、課題の工夫がみられるものでした。この学校の社会科はどの先生も課題や進め方に工夫をしています。そのよい影響が若手にも見られます。この日の授業の導入は、雪国に住みたいか、住みたくないかという質問でした。無責任に答えられるので、どうしてもテンションが上がり気味です。たとえ理由を聞いても、それは個人的なものなので、議論としてはかみ合いません。このような導入をするのであれば、短時間で終わらせる必要があります。意味なくテンションは上げない方がよいのです。このことを意識することで、様子はずいぶんと変わると思います。より根拠を意識したものにしたいのなら、「友人に雪国住むのを勧めるか、それともやめるように説得するか」といったものにすればよいでしょう。客観的な理由が求められるからです。「深く考えさせたい」「掘り下げたい」のであれば、雪国の市長になって人口増加のための施策を考えるというのも一つです。子どもが「考える」ことを意識して授業を組み立ててほしいと思います。
中堅の先生の国語の授業は、1年生の古文でした。明るく、子どもたちをよく受容できる先生です。ちょうど文法の場面でしたが、中学校では子どもたちにほとんど知識がありません。係助詞の説明をするのですが、活用形のことすらよくわかりません。どうしても一方的な説明になってしまいます。知識を教えたい気持ちはわかるのですが、今の時点で最小限伝えるべきことは何かを考えて、絞り込むことも大切でしょう。
説明中に1人の子どもが手を挙げずに質問しました。私にはその内容がよくわかりませんでしたが、授業者はそれに答えました。おそらく、他の子どもも私と同じ状態だったでしょう。もし、全体に説明すべき内容であれば、その質問内容を全体で共有する必要があります。個人的に答えればすむのであれば、後で個別に対応すればいいのです(「公的」か「私的」か判断する参照)。ちょっと気になる場面でした。
古文では音読が大切です。授業者はそのことしっかりと意識していました。授業者は口をしっかりあけて読むことを第一のポイントとしていたようです。範読もそのことを意識しています。しかし、教科書に目がいったまま、子どもたちの口元をしっかりとは見ていませんでした。ここは、目指す姿(口をしっかりあけている)を見つけて、ほめることをしたい場面です。評価することで子どもたちも意識をするようになります。目指す姿がしっかりとあっても評価と一体とならなければ実現はできないのです。
中堅の先生の理科の授業は、光の屈折の実験でした。授業者は子どもたちをしっかり受け止めながら授業を進めていました。半円柱のガラスを使った実験の後、直方体ガラスを使って光の進み方を実験します。ここでは時間がないため記録を取らずに光の進み方の観察だけするよう指示しましたが、その前に屈折や全反射についての実験をしているので、それを活かしたいところでした。前の実験でわかったことを使って、どのように光が進むか予想をさせるのです。その後に実験をすれば、予想が当たった、外れたことについてもう一度じっくり考えるはずです。理科は、実験からわかった性質や法則を、現実を予想したり、期待した動きをするものを作ったりすることに役立てる教科です。そういう理科のよさや面白さを体験させることができたはずの場面でした。次の機会にはそのような課題を与えてほしいと思います・
5年目の先生の数学の授業は、定期試験の結果が悪かった学級でした。そのことを意識して観察したのですが、授業者と子どもの関係は良好です。どの子どもわかろうと話をしっかり聞いています。友だちと相談もできます。ただ、力のない子どもが教師の説明の途中であきらめてしまうのが目につきます。また、授業者もわからせたいと思うあまり、一方的に説明する時間が増えているようにも感じました。ここは、あえて子どもたちでわかるための時間を多めにとる必要があるように思いました。子どもが友だちの発表をあまり真剣に聞かないことも気になりました。発表に対して授業者がすぐに説明をするようになってきていることと無関係ではないでしょう。
子どもが習熟するための時間も少ないように思いました。教師の説明が増えるということは、考える、習熟するといった子どもの活動の時間を奪うことにつながります。悪循環にならい内に断ち切ることが必要だと感じました。
3年目の先生の数学の授業は、円の接線の場面でした。円の接線の定義と性質の因果関係がはっきりしません。よく整理できていないままに授業に臨んだようでした。
このことについて授業者は、「教材研究の時間が取れなくて不十分な状態で授業をしてしまった。子どもたちに申し訳ないことをした」と語りました。言い訳をせずに「申し訳ないことをした」という言葉が出てきたのは好感が持てます。教材研究ができなかったことはほめられたことではありませんが、子どもに対する姿勢は評価できます。
今、困っていることを聞いたところ、「子どもの発言が減ってきた」ということを挙げました。その理由を聞いたところ、「子どもが自信を失くしている」というのです。先ほどの学級だけでなく、1年生全体の数学の試験の結果が悪いこともその一因のようです。「子どもが勉強していない」といった理由であれば、叱ろうと思っていたのですが、そうではありません。子どもたちに自信を持たせなければいけない。それは教師の責任である。そう思ってくれているのです。教師としての力が足りなければつければいいのです。子どもに自信をつけるために必要と思えることをやればいいだけです。どれが正解かわかりませんが、世間ではいろいろな試みがされています。わからなければ聞けばいいのです。しかし、子どもたちのせいにしてしまえばそれで終わりです。教師の問題だと思うところから始まるのです。真剣に考えていることが表情からも伝わってきます。成長していることを強く感じました。
1年生の担当者で知恵を絞って、子どもたちに自信をつけさせるための手立てを考えてくれることと思います。先ほどの5年目の先生もそうですが、皆さん子どもたちに真剣に向かい合ってくれています。力を合わせればきっとよい解決策は浮かんでくることと思います。私も、自分がやってきた方法をいくつかお伝えしておきました。
1年生の数学の問題は、おそらく数学だけの問題ではないと思います。授業についていけない子どもが増えてきている。それに伴い学級でも孤立し始めている。その危険を感じています。教師によって態度が異なるということは、教師側が変われば済むことです。極論すれば、2年生になった時に担任や教科担当者が変われば解決してしまうことかもしれません。しかし、学力の問題は待ったなしです。単に勉強をさせるという発想ではなく、先ほどの3年目の数学教師が言っていた、「自信が持てる」ということとその一つ前の段階、「自信がなくても参加できる」授業をどのようにして実現するか。それと並行して、学力的に苦しい子どもが学習に前向きに取り組めるようにするために、授業以外の場面でどのような手立てを講じるか。これらのことが課題となっているように思います。いろいろと困難はあるでしょうが、学校全体で力を合わせて乗り切ってほしいと思います。