日記

チームとしての動きが出てくる(長文)

公開日
2015/05/15
更新日
2015/05/15

仕事

昨日の日記の続きです。

高等学校は全体としてはよい状態でした。授業者によって子どもの様子の違いはありますが、その差も以前よりは減ってきているように感じます。子どもたちが教師の話を聞いているだけの受け身ではなく、まわりとかかわりながら考える授業が増えたことと無関係ではないでしょう。活動する時間が増えることで、授業に対して前向きな気持ちになり、受け身の授業でも大きく崩れなくなっているように思います。
子どもたちが課題に取り組んでいる時に、ヒントをしゃべってしまう先生がいます。机間指導中に子どものつまずきに気づくので、子ども自身で解決するのを待ちきれなくなるのです。しかし、真剣に考えている子どもたちにとっては雑音です。また、手詰まりになると教師がヒントを言ってくれるのを待ったり、教師に質問するようになったりもします。子どもが質問して教師が答えるのであれば、子ども同士で考える意味はありません。相談しても手詰まりになっているようであれば、中途半端なことをせずに、いったん活動を止めてどこで困っているかを共有するとよいでしょう。同じようなことで困った子どもたちの中には、それを解決できた者もいます。どのようなことをしたら解決できたか、結論ではなくその過程を聞くようにします。手詰まりだった子どもも見通しを持てると、課題に取り組もうとします。話の途中でも、ペンを持ってやり始めます。そういう状態になってくれば、もう一度子どもたちで課題に取り組ませるのです。子どもたちに考えさせる授業の経験が少ないために、こういう進め方のコツといったものをまだご存じありません。今後、必要に応じてお伝えしていきたいと思います。
考えさせる時間を確保しようとすると、知識を教える時間がなくなってしまいます。授業観の転換が求められます。知識を教えれば身につくわけではありません。授業でやったというのは教師のアリバイ作りでしかないのです。授業で扱うべきこと、考える時に必要なことは何かを考え、それ以外のものを引き算することが大切です。最低限の知識をもとに考えさせればいいのです。考える過程で教科書や資料を調べ、活用することで活きた知識が身につきます。用語などの知識は予習プリントで事前に子どもたちに学習させている教科もありました。こういった工夫が大切です。教師が説明して教えなければわからない、身につかないというのは、幻想ででしかないのです。
こういった考える授業に取り組んでいる先生から、試験問題をどうすればいいのか質問されました。従来の知識を問う問題をどう考えればいいかというのです。子どもたちは、知識を問う問題を増やせば、それで点が取れるからいいと考えるのではないか。逆に減らしてしまえば、点が取れない子どもが出て、やる気を失くしてしまうのではないか。確かに悩ましいところです。知識は小テスト形式で評価するという方法もありますが、時間の関係で難しいということでした。こういったことも、先生方が乗り越えなくてはいけない課題です。子どもの実態や今後の成長にもよりますので、何が正解ということは言えません。先生方が経験を積みながら解決していく類のものです。こういった課題には、個人ではなく教科として取り組むことが大切です。難しい課題だからこそ、チームで取り組むのです。子どもたちの学び合いと同じです。私からは、試験の設問自体を穴埋めにして、用語を入れさせることで設問が完成するといった形式や、一問一答形式で問うた用語を使って設問の解答を記述するといった形式を参考として示しました。ヒントになれば幸いです。
こういった前向きな質問をいただけるようになったことは、うれしい限りです。

1年生のGDMによる英語は、前回見た時よりも子どもたちがこの形式に慣れてきているように感じました。以前は、集中していましたがとても緊張しているのがわかりました。今回は緊張の中にも笑顔が見られるようになってきました。「できそう」「わかった」といった気持ちが表情に出てきています。指名されて前で実演する子どもが楽しそうなのが印象的でした。楽々できるわけではありません。苦労しながらこなすのですが、他の子どもたちが真剣に見てくれています。自分の話した言葉に対して、他の子どもが立場(主語)を変えて言い換えます。自分がみんなの学びの起点になります。だから、自己有用感を味わえるのです。
こういった新しい取り組みをするまでは、いかに寝させないかが授業の課題だったのですが、今は「寝ないなんてのは当たり前のことで、どうやって力をつけるかが課題だ」と言い切っておられました。先生方は、相変わらず準備に多くの時間を割いています。第三者の立場で言えば、「頑張って」と気軽に言えるレベルではもうありません。このエネルギーが継続しているのは、子どもたちの笑顔と学習への前向きな姿です。「こんな表情が見られるから、頑張れる」という先生の言葉と笑顔が印象的でした。子どもたちは、英語の授業は疲れると言うそうです。だから嫌なわけではありません。部活動を考えてみてください。一生懸命やるから疲れます。それでも、「できるようになる」「成長する」「結果が出る」、だから苦しくても「楽しい」のです。授業で鍛えるということも同じなのです。ぜひ他の先生方にもこの子どもたちの姿を見ていただきたいと思います。この学校の子どもたちは、こんなにも素晴らしいポテンシャルがあるのです。
この日の授業で課題として感じたのが、子どもたちの声の大きさです。GDMでは子どもは教師の言葉をオウム返しで言いません。示された”situation”を自分の視点で表現するのです。したがって、言葉はスラスラとは出てきません。一言一言考えながら訥々としたものになります。声も最初は自信がないので大きくはありません。最初から大きい声を期待する必要はありませんが、何度か繰り返して自信を持って大きな声が出るようにする必要があります。声が小さくても、それでいいよと正しく言えていることをきちんと伝える必要があります。その動作や声がまだ小さいように思います。自信のない子どもは友だちの言葉を聞いて追いかけながら声を出します。オープンカンニングです。みんなと一緒に言葉にできるようになって、初めて理解できたといえます。そのためにも、声がそろうまで、何回か繰り返すのです。もちろん1回の場面で全員が理解できるようになるわけではありません。いくつかの場面を経て理解するのですが、1回あたりの繰り返しが少し少ないように思いました。
この英語は習熟度別に行っていますが、その下位を受け持っている若手は、GDMを自分なりに消化して、子どもたち合わせたやり方にしようと工夫しています。何年もかけて実践されているプログラムですから、それなりに完成しています。工夫をしても元の方がよかったということもあります。しかし、そうやって自分で考え、子どもたちの姿で修正することも大切なことです。自分のやり方に依怙地にこだわるのであればほめられませんが、この先生は失敗を素直に失敗と認めることができます。この姿勢は教師が進歩するためにとても大切なものです。一つひとつ自分で考え確かめながら、自分のスタイルをつくっていってくれると思います。2年生の授業では、アドバイスをもとに1時間ずっとグループで活動するのではなく、ペアで活動したり組み合わせを変えて活動したりといった変化を加えることで子どもたちの活性度が上がったことを報告してくれました。これからも、きっといろいろ工夫をして、その結果を報告してくれることでしょう。毎回の訪問がとても楽しみです。
英語科の先生からは、子どもの姿に裏付けされた自信を感じるようになってきました。子どもたちが先生を育ててくれるのです。

若手の先生の2年生の日本史の授業は、授業者の悩みを感じるものでした。
授業者は話し方も上手で、ユーモアもあります。子どもたちに問いかけもします。しかし、いかんせん板書しながら休みなく話しつづけています。子どもたちは板書を写すことに追われ、反応もできません。問いかけられてもすぐに指名し、教師が説明する一問一答なので、考える余裕もありません。次々と話題が先に進みますが、子どもたちは何をやっているのかわかりません。今学習していることが何なのかわからない、ミステリーツアーなのです。しかし、授業者は、子どもたちに興味を持ってもらおう、考えてもらおうとしています。その気持ちと授業のスタイルがどうにも矛盾しています。実はこれは、1つの教科を何人かで受け持っている時によくあることです。そうです、進度の問題なのです。ここまで進まなければいけないという制約があるため、じっくり取り組めないのです。では、先ほども述べたように内容を引き算すればいいのですが、「教師が説明しなかったことは試験出してはいけない、試験に出ない」という都市伝説に教師も子どもたちも縛られているのです。文部科学省も知識重視ではなく、活用重視の姿勢を以前から明確に打ち出しています。高等学校は大学入試が変わっていないことを理由に変革を怠ってきたのです。しかし、大学入試の改革という待ったなしの状態がやってきました。授業を変えざるを得ないのです。
この課題は授業者個人が負いきれるものではありません。教科や学校として取り組む必要がある課題です。このことに気づいている先生も増えてきました。各教科で授業のありようを考える場を設けてほしいと思います。
この先生には、当面1時間の授業で何が目標かを明確にして、その上でこれだけは考えさせたいというものを絞って時間を確保するようにお願いしました。その分、授業時間の中で説明することを減らし、プリントなどを活用して子どもたち自身で調べることや学習することで補うのです。こんな授業をしたいという思いを持っている方です。きっと、工夫をしてくれると思います。

1年生の理科の授業で子どもたちのとても面白い姿を見ることができました。
子どもたちが一番よい表情で集中していたのが、授業者が雑談をしている時でした。体が前に傾いて、ニコニコしています。それと比べると、板書の説明をしている時や問答をしている時は集中がはるかに落ちていました。雑談を聞く時、子どもはリラックスして体を後ろに傾けるものです。子どもたちとこの先生の人間関係がよいから体が前に傾くのです。しかし、子どもたちはシビアです。この1月あまりで、授業に関する話は聞く価値があまりないと判断したのです。板書や教科書に書いてあることで十分だというのでしょう。問いかけに対してもあまり反応しません。真剣に考えなくても、最後は授業者が答を言ってまとめてくれます。指名されなければ問題はないのです。
授業者には、正直にこのことを伝えました。理科であれば、子どもに仮説を持たせそれを検証するためにはどのような実験をすればよいか、実験の結果がどうなれば仮説は立証されるのかを考えさせたり、与えられた知識を活用して現実の現象を説明させたりといった授業が考えられます。子どもが思考し、実験の結果や知識を活用して、現象を理解し子どもの言葉で説明するといった授業を目指すことを提案しました。授業者は難しそうだが面白そうだと、前向きに挑戦する姿勢を見せてくれました。うれしい反応です。この先生の授業がどのように変わっていくか楽しみです。

理科の主任から、理科の先生だけで授業についての基本を確認する時間を取りたいと言っていただけました。とてもうれしいことです。教科として授業をどうするかという動きが広がってきました。教師は個人商店の集まりであることが多く、授業に関して相互不可侵条約を結んでいることが多いのですが、その壁が崩れつつあります。学校内によいチームがいくつも生まれてきました。先生方の前向きな姿勢が、子どもたちにも伝わってきています。
この学校のこれからがとても楽しみです。