日記

全員参加のために必要なことを考える

公開日
2016/07/26
更新日
2016/07/27

仕事

昨日の日記の続きです。

3年生の理科は、昆虫の体のつくりの授業でした。
授業者は言葉づかいや表情が柔らかく、子どもたちとの関係はよさそうです。
チョウの足の数を確認します。「はい」「はい」と声を上げて、半数くらいの子どもの手が挙がります。1人の子どもが指名されると、机に手をバンと当てて悔しがる子どもがいました。一問一答で授業が進んでいるので、最初に指名されなければ発言の機会がないのでしょう。授業者と子どもたちの関係がよいからこそ、指名されたかったのかもしれません。
「6本」と指名した子どもが答えると、授業者は「どうですか?」とたずねます。2/3ほどの子どもたちはハンドサインで賛成を示します。ここをどう考えるかです。手を挙げていない子どももわかっているのかもしれません。しかし、明らかに集中はしていません。授業者は「みなさん、いいですね」と「みなさん」という言葉を使って先に進みました。全員ではないのに、「みなさん」という言葉を使うというのはあまりよくありません。もし、わからなかった子どもがいれば、自分は「みなさん」の中に入っていないと思います。集中していなかった子どもは、自分の参加に関係なく授業が進んで行くと考えます。ますます、参加しなくなります。せめて、「手を挙げていない人は、何本かな?」と、反応を求めることが必要だったと思います。
授業者は、「胸に足が6本あります」と「胸に」と言う言葉を足します。この言葉も子どもたちから出させたいところでした。

授業者は人間の足と比較しながら説明をします。「人間の足は何本?」といった問いかけに何人かの子どもたちが反応します。授業者はその答に反応して授業を進めます。一見、子どもの発言を引き出して子どもの言葉で授業を進めているように見えるのですが、他の子どもはほとんど参加していません。子どもたちの姿がバラバラなことが気になります。取り上げるべきことなら、全体で共有してから対応するべきでしょう。
「このような虫を何というか知っている?」と問いかけます。これは知識で、知っている子どもしか答えられません。授業者はこの場面の最後に、「習ってないから知らなくてもいいよ」とフォローするのですが、子どもたちに発言させたいのであれば、知らいない子どもが答えられる機会を与える必要があります。教科書や資料集で調べるといった機会を与えるとよいでしょう。

授業者は、「知っている人、せーので言おう」と指名をせずに言わせました。「昆虫」という言葉以外に、「成虫」という言葉も混じっていました。子ども同士で「違う、昆虫」と言った言葉が飛び交い、ちょっと雑然としました。授業者は、「もう一度言うよ」「みんなで心を合わせて」と再度子どもたちに言わせますが、知識ついてこれをやれば多数による正解の強要になってしまいます。一部の子どもはますますテンション上げてしまいました。「昆虫」の声が大勢を占めますが、まだ「成虫」という声も聞こえます。「昆虫」という用語の定義ですので、根拠を持って判断できることではありません。どっちが正しかったという結果を争うだけです。授業者は明るく、笑顔で、「違うのも聞こえてくるけれど、わからなかった人は今日覚えてください」と「このような虫を昆虫と言います」と結論づけました。子どものテンションが上がっているので、「カブトムシもだよ」といった不規則な発言があちこちから上がり、雑然としています。
ここで、ワークシートに昆虫と書き込むように指示し、しばらくして、「隣同士で、頭、胴、腹、足6本、昆虫と書けたか確認してください」と声を出しましたが、きちんと定義を押さえることが必要でした。作業中ではなく、子どもたちが集中した状態で、「昆虫かどうかはどこでわかるの?」といった発問から、少なくとも成虫の体が頭、胴、腹に「分かれていて」、足が「胴から」6本出ているといったことを子どもたちとやりとりしながら、確認したいところでした。

子どもたちのテンションが上がりやすい学級でした。授業者が学級全体をきちんとコントロールすることが必要です。授業者は表情もよく、個々の子どもを受容することができるのですが、全体を見ることができていないことが気になります。反応する子ども、参加する子どもだけで授業が進んでいます。全員参加を意識してほしいと思います。

3年生の算数は、講師の先生の引き算の筆算の学習でした。
授業者が問題を黒板に板書します。時々教卓に置いた教科書を見ながら、黒板に向かってしゃべりながら書いています。その間子どもたちの様子を見ていません。ここで問題を板書する意味がよくわかりません。ICT環境が整っているので、ディスプレイか黒板に映せば済むことです。あらかじめ印刷しておいて黒板に貼ってもよいでしょう。
子どもが板書を写す速度がかなり違います。すぐに終わって待っている子どももかなりいました。子どもたちに写させることに意味があるのかどうかも、ちょっと疑問です。写させるのであれば、速く書くことを意識させたいところです。印刷して配ることも視野に入れるとよいでしょう。
「書けた人、鉛筆置いて」と指示をしますが、まだ全員が鉛筆を置いていないのにしゃべり始めました。指示を徹底させることを意識してほしいと思います。

全員で問題文を読むのですが、子どもたちの姿がバラバラなのが気になります。黒板を見ている子ども、ノートを見ている子ども、写すことを続けながら読む子ども、いろいろです。授業者はこの場面で子どもたちにどうあってほしかったのでしょうか。どうも、あまり意識していなかったように思えます。全員に顔を上げさせ、板書を見て読ませたいところです。顔を上げさせることで、口元を見て、だれが声を出しているか出していないかを判断することもできます。
発問に対して、全員が挙手をしなくてもすぐに指名します。子どもたちのハンドサインも全員ではありません。「ハンドサインいいですね」「あとの人は大丈夫ですか?」と他の子どもに参加を促しますが、この言い方であれば、「答は正解ですよ。大丈夫ですか?」と言っているのと同じです。他の子どもも手が挙がりますが、まだ全員ではありません。ノートを写すことを優先している子どもも目立ちます。「わかっていること」「聞いていること」「単位」と問いかけますが、授業者の指示に従って答えているだけです。子ども自身で問題を解くために何をすればよいか考えていません。授業者が定型化した解き方を、授業者の指示に従って答えているだけです。

何算になるか問いかけると、引き算という答が出てきました。この時、ハンドサインは半分も挙がりません。「どうして」と問い返して出てきた答えは、「問題に違いと書いてあるからです」でした。授業者はすぐに「違いはと言われたら引き算にする」と説明します。パターンで教える典型的な例です。教科書の一般的な問いはそれで対応できるかもしれませんが、そのパターンから外れた問題を解くことはできません。この授業に限らず、算数でこのような進め方を見ることが多いのが残念です。問題文の「具体」から、すぐに引き算という「抽象」にとんでしまいます。問題文が表す具体を抽象化していく過程が大切です。過程をすっ飛ばして、「違い」という言葉で「引き算」というのは、乱暴に思えます。少なくともハンドサインの状況からは、「引き算」とすぐに出てこなかった子どもがある程度いるように思えます。この授業は筆算の授業なので、ここに時間をかけたくないのはよくわかりますが、であれば最初の問題提示とノートに写す場面を削って、半抽象の線分図などで確認するといった場面を入れることが必要だったように思います。
授業者は「みんな、引き算で賛成といったから」と、立式に移りました。算数・数学においてはきちんと根拠をもとに納得することが大切です。ここでの根拠は何であったかをきちんと共有することが必要だったように思います。

式を書かせて確認した後、昨日までと何が違うかを問いかけます。「引き算」というのが答でしたが、昨日何をやったきちんと押さえていないので、これはあまり意味のある問いではありません。昨日は「(足し算の)筆算をやったね。今日も筆算をやりたいんだけれど、どこが違う?」といった問いかけにしたいところです。
一部の子どもと、「今までどうやって計算した」といったやり取りをして、「今日は3桁の数の引き算の筆算の仕方を考えよう」とめあてを提示しました。
子どもたちに筆算を書かせて、計算をさせますが、計算した子どもには、「今日は筆算の仕方を考えるので、筆算の仕方を説明できるように」と追加で指示をします。
考えるのと説明するのは次元が違います。本来計算ができた子どもは、仕方を考えたからできたはずです。その時点で最初のめあては達成したことになります。追加の指示をするのなら、めあてに「説明できる」を付け加えておきたいところです。
計算ができたらしい子どもがじっとしています。この状態では、説明を考えているのかどうかわかりません。説明をノートに書くといった具体的な活動を指示するか、まず計算だけさせていったん作業を終わり、そこで計算できなかった子どもができるようになるために、子どもたちで説明をさせる場面をつくるといったことが必要だと思います。

子どもたちが考える場面を明確にし、子どもの考えをつなぐことを意識することが必要です。子どもたちからどんな考えを引き出したいのか、そしてそれをどうやって一部の子どもだけでなく全体で共有するのかを考えて、授業をつくってほしいと思います。

この続きは明日の日記で。