日記

タブレットを使った公開授業から学ぶ

公開日
2015/06/11
更新日
2015/06/11

独り言

ICTを活用した公開授業の中継を見に行きました。小学校6年生の国語と、小学校4年生の算数の授業でした。

国語の授業は、デジタル教科書に子どもがマーカー機能で書きこんだ線や手書きのメモを全員で共有し、一人の意見や考えを受けて授業者が次の質問を発し、再び個人で考えて発表するという繰り返しでした。一人ひとりの発言を全員が共有できているかどうかは映像からはわかりません。次々と質問が変わっていきますが、それらが子どもたちの疑問や課題になっていないように思いました。子どもたちは自分たちのやっている活動がどこに向かっているものか、わかっているのか疑問です(少なくとも私には全くわかりませんでした)。子どもへの問いかけや確認が所々に入るのですが、子どもたちは全員挙手するわけではありせん。数人しか反応しないこともよくありますが、授業者がすぐに自分の言葉でまとめて次に進めていきます。挙手しない子どもの考えを聞いてみたいのですが、気にならないのでしょうか。子どもたちが教師に鼻面を引き回されているようにしか見えません。
子どもたちは電子黒板で自分のタブレットの画面を表示して説明します。たくさんの書き込みがあるのでかえって情報過多でよくわかりません。必要な情報だけを提示する必要があると思います。「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と感じました。また、発表者は電子黒板の前で操作しながら話すので、友だちの顔をほとんど見ていません。たまたま会場の環境が悪かったせいかもしれませんが、相手を見て話すことはあまり意識されていないようでした。せめて指示棒のようなものを使えば、電子黒板から離れることができ、友だちの顔を見ることができたのではないかと思いました。
国語の授業でデジタル教科書のよさを感じるのは、テキストをスクロールできることです。離れた場所の文章を比較したりするときにはとても便利だと思いました。逆にそれ以上の魅力は今回の授業からは感じませんでした。
今回の授業は一言で言えば、「デジタル機器を使って子どもの考えを把握した教師が、その場で脚本を書いて子どもたち演じることを強要している」というものでした。子どもたちがつくるのではなく、教師がつくる即興劇のように感じました。

算数の授業は、折れ線グラフの導入場面でした。2時間完了の1時間目ということでしたが、この1時間の授業のねらいが折れ線グラフのよさを知ることなのか、書き方を知ることなのかがよくわかりませんでした。
授業者は子どもの言葉を活かすことを意識しています。子どもの言葉を上手く拾うことができます。一つひとつの場面を点で見ると上手な授業なのですが、構成がよくわかりません。新潟と那覇の気温を調べる自由研究をした子どもを題材に導入するのですが、算数に関係のないことにとても多くの時間を費やします。本題のグラフに入るまでに優に15分以上を費やしていました。結果授業はかなり延長してしまいましたが、その意図が全くわかりませんでした。
項目名も書いていない、多い順に並べられた棒グラフを見せます。子どもの「おかしい」という言葉を拾って、どこがおかしいのかを相談させます。「気温だからおかしいと思う」という子どもの言葉をとりあげました。問題は「なぜ気温だとおかしいのか?」です。棒グラフは多い(大きい)、高い順に見ると説明しますが、そうなのでしょうか?社会科の雨温図では雨量は棒グラフです。本質は降順で表わすことではありません。棒グラフは、もともと積み上げグラフです。本を1冊2冊と積み上げるといったことが原点です。量を見るのに使うものだったのです。しかし、授業者はおそらく意図的にそこを無視したのでしょう。なぜなら変化を見ることに注目させたいからです。とすれば、この導入は無理があるのではないでしょうか。あえて「気温を調べる」とそこから何を知りたい、何がわかったと、何を伝えるといったグラフ化する目的を見せていないのですが、それではグラフを評価できないと思います。
今度は子どもたちにこのグラフを月の順に並べ替えたらどうなるかを、電子黒板に手書きさせます。指名された子どもは、連続な線で描きました。描かれたものを見て気づいたことを言わせますが、線で描いていることだけを拾います。その理由を問いますが、「楽だから」の一声です。そりゃあそうですよね。結局理由は明確にしないまま折れ線グラフの授業になっていきました。
授業者は新潟と那覇の気温の表を見せ、そこからグラフ化することのよさを考えさせようとしています。この表の表題には、「変わり方」「違い」といった言葉があります。突然「変化や違いついて調べよう」目的が出てくるのですが、子どもたちにはその必然性がわからないと思います。あえて気温を「調べる」と「変化」「違い」という言葉を封印していたのに、なぜでしょう?疑問に思いました。
ここでデジタルペンを使って折れ線グラフを描かせます。授業者はここぞという時に絞ってICT機器を使う主義のようですが、そのここぞがデジタルペンでの作業でした。グラフの値を途中からずらしてしまった子どもがいます。その子どものグラフを見せて、どこがおかしいか指摘させます。失敗した原因を探るためにデジタルペンの機能を使って、描いているところを再生させます。1月ごとに順番に線でつなぎながら描いていました。きちんと描けた子どもが点を先にとってから結んでいく様子も再生して、比較させます。違いがわかったところで、点を先に描いて結ぶ方がいいと授業者が結論づけます。なら、最初から教えればいいでしょう。折れ線グラフの描き方の手順を考えることが算数、数学の目的にあっているとは思えませんが、せめて子どもたちにどちらがいいかその根拠と共に考えさせ、全員が納得する必要があるでしょう。結局教師が教える授業になってしまいました。
タブレットを使った授業を考える以前に、算数の授業として何を考える授業だったのかがよくわかりませんでした。

もやもやしたまま、午後の振り返りのセッションの中継を見ました。パネラーの一人が非常に明確に2つの授業についてコメントをします。一つひとつの指摘に思わず心の中で拍手をしました。まさに授業中に私が思っていたことそのものです。もやもやがすっきりしていくのを感じました。この午後のセッションと合わせることで、この日の学びが確かなものになったと思います。どんなテクノロジーも、授業の基本をおろそかにしては活かせない。逆に言えば、力のない者でも上手く授業ができるようなテクノロジーはまだまだ難しい。あらためてそう感じました。よい学びをさせていただきました。