日記

授業者に余裕がないと、子どもも苦しい

公開日
2016/07/15
更新日
2016/07/15

仕事

昨日の日記の続きです。

新卒の国語の講師の授業は、1年生の「ちょっと立ち止まって」という、だまし絵を題材にした説明文の読み取りの場面でした。
挨拶が終わると同時にしゃべり始めます。宿題の確認を行うのですが、子どもたちはまだ落ち着いていません。ちょっとあせりすぎです。余裕のなさが気になります。
授業者は子どもを見る余裕がないため視線が動かず、子どもたちの状況を把握できていません。また、しゃべりに間がないため、子どもたちが授業者の言ったことを理解する時間がありません。コミュニケーションがとれていません。
宿題を一人ひとりチェックするのですが、早くしようと子どもの手元だけを見て移動します。待っている間の指示がないため、子どもたちは授業開始直後からだれてしまいます。しかし、全体を見ていないので、そのことに気づくこともできません。せめて、待っている間にするべきことの指示をしておくことが必要です。チェックが終わるまでに、授業開始から5分経っていました。

順番に自分で調べてきた言葉の意味を発表させます。授業者は発表者のそばに行って一対一になります。子どもの発言を復唱しますが、顔は発言者に向いているので、他の子どもは無視している状態になります。これが延々と続きます。「わからなかった人は書いといて」と言いますが、その前の説明が早口過ぎるので子どもたちは対応できていませんでした。
辞書で引いたことを発表するだけですので、聞いている必要もありません。それでも、子どもたちはおとなしく座っています。が、集中力はほとんどありません。肘をついて時間が経つのを待っている子ども、手遊びしている子どもが目立ちます。
複数の意味がある言葉に対して、この文ではこの意味が当てはまるとすぐに授業者が説明してしまいます。子どもたちが考える場面がありません。

「すぎない」を使った短文を発表させようとします。「できた人?」と聞きますが、誰も挙手しません。最前列の子どものワークシートを見てまわり、2人に発表させました。「単なる妄想に過ぎない」「夢に過ぎない」と発表しますが、これはおそらく辞書に書かれている例文を写しただけでしょう。せめて、主語をはっきりと書かせたいところです。国語の学習が単なる作業になっています。

教科書のページを指定して開かせますが、どこからかがはっきりせずに確認に時間がかかります。その間、子どもたちは待ち続けます、少し集中が戻っていたのですが、たちまちだれてしまいました。
教科書の挿絵の説明をするのですが、何を言いたいのかよくわかりません。子どもたちが理解しているかどうかを確認する場面がないため、子どもたちは聞き流しています。
教科書を音読するように指示します。目標も評価も全く示されません。指示に従わずに手遊びしている子どもが目立ちます。授業者は教科書を持ってすぐに机間指導しますが、死角を増やすばかりです。最前列で教科書がない子どもがいたのですが、机間指導の最後にその横に行ってはじめて気がつきました。隣の子どもに見せてもらうように机を近づけさせますが、子どもはそれ以上かかわり合おうとしませんでした。

教科書の挿絵を見せて問いかけますが、いかんせん挿絵はA4の大きさなので、よく見えません。これでは顔は上がりません。「この絵は最初何に見えた?」と問いかけ、数人が反応すると、すぐにそれを受けて「そうだったね」と返します。「これは何を変えたら見え方が変わると書いてあった?」と問いかけますが、教科書で確認する子どもはわずかです。「近いか遠いか」と一人の子どもが答えると、すぐに「近いか遠いか」と復唱して、絵を持って最前列の子どもに何に見えるか確かめさせます。これは、国語の授業なのですから、本文のどこかを全員で確認することが必要です。何に見えるかは、大した問題ではありません。また、自分で挿絵を見て確認していた子どもいましたから、もし、何に見えるかを確認するのであれば、そういった子どもを指名すればよいのです。挙手がない時、反応がない時に、授業者は常に最前列の子どもとかかわって答を引き出そうとします。その間、ほとんどの子どもは置いてきぼりの状態になります。全員参加を意識することが必要です。

本文を音読させましたが、本文の記述にはまったく触れません。子どもの発言は「近いか遠いか」だけ、それ以外は一部の子どもが絵を見て確認するだけの活動で、授業者が段落をまとめます。自分のノートに書いたものを一生懸命に板書します。集中力を失くしていた子どもたちも、写すことだけはします。これなら、最初から印刷して配った方が、よほどムダがないように思えます。
子どもが大体書き終った時に、「○○さんが言ってくれたように、距離の違いだよね」と補足します。固有名詞で子どもの発言を取り上げたのはよいのですが、発言が「近いか遠いか」から「距離の違い」に変わっています。本文とは関係なく、結論だけを繰り返します。大切なのはどうやって筆者の主張を読み取るかという読解力をつけることです。筆者の結論を受け入れることではないのです。

書くのが遅い子どもを待っているので、その間他の子どもはすることがなくどんどん集中力を失くします。やっと、次の段落に入ると、先ほどの段落と同じことの繰り返しです。
子どもたちが読み終ると、前の段落と同じ距離を変える話だと説明を始めます。これは、以前にあった2つの段落と同じように事例になっていると一方的に話します。説明文の読解は全体の構造を意識して、各段落の関係や役割を考えることが大切になります。子どもたちにそのことを考えさせずに、授業者が段落をぶつ切りにして一方的に説明しています。常に結論ばかりを与えられて、考えることがありません。
この時点で、ほとんどだれも授業者を見ず、集中力がなくなっています。子どもたちに問いかけても反応がありません。授業者も自分のノートを見てしゃべるのが精一杯で、子どもたちの顔を見る余裕もありません。授業者が一人、空回りをしていました。

最後の結論の段落も授業者が延々と板書しました。書き終るまで一度も子どもたちの方を振り向きません。書き終ると、今度は教室をぐるぐる回ります。
結局最後まで、授業者がノートを見ながらしゃべり、板書するだけで終わりました。子どもたちも苦しいですが、授業者もとても苦しそうでした。

経験もなく、国語の授業の基本的な進め方もよくわかっていません。授業者が結論を説明する授業の経験しかないのかもしれません。講師ということで指導してもらう機会もなく、毎日の授業をこなすのが精一杯という様子でした。
余裕を持つためにも、まず笑顔を絶やさないこと、そして、子どもとの関係をつくるために、子どもが外化してくれたら「ありがとう」と認めるようにアドバイスをしました。質問をしてすぐに答を求めるのではなく、考える時間を与える。結論ではなく、本文のどこを根拠にしたかを問いかける。わからない子どもがわかるには、どのような場面が必要かを考える。こういったことが必要です。そのためには、教材分析もとても大切です。おそらく、これらのことをすべて要求しても、とてもこなせる状況には見えません。どのように進めたらよいか先輩に相談して授業を見てもらうことや、できれば事前に先輩の前で授業をしながら一つひとつアドバイスをしてもらうといったことが近道に思えます。
それだけの余裕が学校にあるのかわかりませんが、できるだけのケアをお願いしました。
少しでも余裕を持って授業に臨めるようになることを願っています。

この続きは次回の日記で。