日記

考えるために必要なことや意味のあることに時間を使うことを考える(長文)

公開日
2016/07/15
更新日
2016/07/15

仕事

前回の日記の続きです。

3年目の先生の授業は1年生の社会、産業分類に関する学習でした。
授業者は最初に少し雑談をしました。2分ほどですが、授業との関係が今一つよくわかりません。授業の最初は子どもたちが一番集中する時なので、できるだけ早く本題に入るようにしたいものです。

「○○業」という言葉をいくつ言えるか、10秒くらい考えてと指示します。子どもたちは、すぐに声に出して笑顔でまわりと相談を始めます。日ごろから相談することに慣れていることがよくわかります。隣同士、額を寄せ合っています。授業者はその間、教卓のまわりを整頓して次の準備をしていました。できれば、子どもたちの様子をよく観察してほしいところです。よい状態だからこそ、まわりとかかわれていない子どもに注意が必要です。
1分ほどして、思いついたままに言ってと投げかけます。子どもたちはすぐに、林業、農業と声を挙げます。それに合わせて授業者が用意したカードを黒板に貼っていきます。テンポよく進んでいきます。授業者があらかじめこういったものを準備していると、子どもたちが授業者の求める正解探しをすることにつながる可能性もあります。今回の使い方に問題があるとは思いませんが、事前に一言「先生が事前に考えたのと、君たちが考えたのとどっちが多いかな?」といった言葉を投げかけておいてもよかったかもしれません。
子どもたちから、授業といった言葉も挙がってきます。授業者は、「今日は産業に含まれるもので」と説明します。最初の問いかけの時に、具体例でこのことを確認しておくとよかったでしょう。
子どもたちから出なかったものを授業者がカードを貼りながら説明します。「卸売業」といった日ごろ耳にしないものは、よくわからないようです。授業者の説明を聞いているのですが、次第に集中を失くしていきます。
「今日はこれを、第1次産業、第2次産業、第3次産業に分けていきたいと思います」と課題を提示しますが、子どもたちの集中は戻りません。この課題に取り組む必然性がないからでしょう。

板書をしてノートに写すように指示します。子どもたちはすぐに動きます。しかし、中には手遊びをして写さない子どももいます。授業者は黙って板書するのですが、途中で子どもたちを見ようとはしませんでした。書き終るとすぐに、しゃべり始めます。板書の内容を補足したいのでしょうが、子どもたちがまだ書いている途中でしゃべるのはあまり意味がありません。
子どもたちは写し続けますが、授業者は黒板に貼ったカードの整理などをしています。書き終ったのか手遊びしている子どももいます。授業者は子どもたちの作業の様子があまり気にならないようです。整理し終わって子どもたちの様子を黙って見ていますが、作業をしていない子どもへの指示はありませんでした。
板書を写す作業にかなりの時間がかかっていました。この作業にあまり意味があると思えません。速く書くように促すか、印刷して配ってもよかったでしょう。

第n次産業の説明を始めました。数学を例に1次2次の説明を始めますが、xとyがある式を2次式と間違った説明をしてしまいました。教科間の連携は決して悪いことではないのですが、うろ覚えの知識で話してはいけません。
授業者は第n次産業の説明を始めるのですが、子どもたちの顔が上がりません。一方的に話しても、聞いてはくれないようです。先ほどの「○○業」について相談している時の姿とはずいぶん違います。
説明も、今一つ明確でありません。きちんとした定義、根拠を示して、その定義に基づき進めていく必要があります。
例えば、第1次産業は自然から物を得る、第2次産業は自然から得た物を加工する、第3次産業はそれ以外というように、シンプルに定義した上で、日本では、総務省の決めた日本標準産業分類をもとに分類していることを押さえるべきだと思います。

説明が終わった後、「大体わかりますか?」と問いかけますが、子どもたちはほとんど反応できません。「製造業は第何次産業?」と最前列の子どもに問いかけました。他の子どもは他人事で反応しません。
黒板に貼った産業を分類するのに、時間がかかるから一緒にやろうかと伝えますが、子どもたちは授業者が書いた第1次、第2次、第3次産業の枠をノートにつくることに集中して誰も顔が上がりません。それに気づいて、授業者は書き終るまでしばらく待ちます。テンポが悪くなっていきます。
カードを見せて、全体で、第何次産業か数字で答えさせます。子どもたちの声が今一つはっきりしません。全員が反応していないのに、授業者が説明をして分類していきます。しかし、定義がはっきりしていないのですっきりと腑に落ちません。
総務省の定義では、第1次産業は、日本標準産業分類の「A.農業、林業」「B.漁業」、第2次産業は「C.鉱業、採石業、砂利採取業」「D.建設業」「E.製造業」、第3次産業はそれ以外となっています。このことを知っていれば、分類は難しいことではありません。この活動の意味が今一つ理解できませんでした。
「工業」が出てきましたが、日本標準産業分類には、「工業」単独では載っていないはずです。製造業の中に、化学工業や繊維工業という形で記載されているだけです。細かいことを言う必要はありませんが、「工業」は「製造業」に含まれていることを押さえないと、混乱する心配があります。
「鉱業」については、「教科書によっては第1次産業になっているが、みんなは第2次産業で覚えてください」と説明します。「どちらとも考えられるが、総務省の分類をもとに」と説明すればすっきりしたと思います。子どもたちが「えっ」と思いそうな場面でしたが、ほとんど反応しませんでした。
分類が終わると、また子どもたちは写します。この時間がムダに思えてなりません。定義をきちんと理解すれば、写す必要はありませんし、主要な産業の分類は教科書や資料集に載っているはずです。

子どもたちが書き終ると、今度は、みんなの家族の仕事でこの中にないものはないか問いかけます。なぜ、書き終ってからなのかわかりません。先ほどの分類の後すぐにするべきだったと思います。他の学級では「自衛官」「消防士」といったものが出てきたと問いかけますが、第何次産業になるのかというのであればあまり意味のある質問ではありません。定義を明確にしていればすぐに答えられるからです。

教科書から抜粋した「合衆国」「日本」「ブラジル」「ウガンダ」の4つの国の産業別人口比を提示して、それがどの国かを考えさせるのが次の課題です。子どもたちに予想をさせるのですが、一体何を根拠にすればいいのでしょうか。今まで学習した知識とどう結びつけるのでしょうか。考えるための足場を与える必要があると思います。途中で「ウガンダ」がわからない人は資料集を見るように指示します。最初に、4つの国について知っていることを子どもたちから引き出して共有したり、各国の産業別生産高といった資料を与えたりする必要があると思います。
自分の予想を見せあって、相談するように指示しますが、思ったより動きがよくありません。相談するにも、根拠となるものが少なすぎるのです。

「自分の答を発表してもいい人?」と問いかけますが、挙手は1人だけです。挙手に頼らず、「聞かせて?」とこちらから指名すればよかったと思います。
発表の間、顔を上げていない子どもや手遊びしている子どもが目立ちます。教科書を見れば正解がわかるので、積極的に参加しようとは思ないのかもしれません。授業者は、「これとは違うよという人?」と問いかけますが、ここはまず、「同じ人?」とつなぐことで、同じ考えの人を参加させたいところです。
何人かの予想を聞いたあと、答を見てみましょうと教科書を開きます。これでは、ここまでの活動の意味が全くありません。子どもたちが考えたことはどこにも活かされません。自分で予想を立ててくれたのは偉いと評価しますが、あまり納得できませんでした。
これならば、4つの国の国名を予想させるのではなく、産業別人口比からそれぞれがどのような国かを考えさせた方が面白かったと思います。これならば、自由に発言できますし、そこから浮かぶ国の像と、実際とのギャップから考えを深めることができます。

授業者は基本的には経済発展している国は第3次産業で働いている人の割合が高いことをメモするように指示します。続いて、日本の特徴を授業者が説明を始めます。せっかく4つの国を並べているのですから、子どもたちに考えさせたいところです。

日本の産業別人口比の変化のグラフを資料として渡します。それを見ながらまた、授業者が説明を始めます。
一通り説明した後、「もう一つ、このグラフから感じてほしいことがあります。今、日本はピンチに陥っている。そのことを見つけてください」と問いかけます。何人かの子どもがつぶやきますが、「しー」と制止します。「わかる人?」と聞くと、数人の手が挙がりかけますが、その途中で最初に手を挙げた子どもをすぐに指名します。最初に答えた人が評価されることを子どもたちに教えることになります。いわゆるヒドゥンカリキュラムです。
「第1次産業が年々減っていること」と答えると、「そう」と言って授業者がまたまた説明を始めます。子どもはグラフから読み取っただけで、それがピンチであるとはまだ言えません。経済発展すれば、第1次産業は減るのだから悪いことではないとも言えます。そのことを一切考えさせずに、授業者が説明をするであれば、子どもたちに考えさせたことは意味がありません。授業者の問いかけに対して子どもの意欲が今一つなのは、最後は授業者が説明をするので、自分たちが考えることに意味がないと思っているからのように感じました。

食料自給率の話をしますが、雑な定義でした。カロリー別、重量別等の違いや、日本で育てても飼料が輸入であれば自給率は下がるといったことは押さえておきたいところです。
日本の食料自給率はどのくらいか問いかけますが、子どもたちが考えるための根拠がありません。せめて、先ほど比べた、他の3つの国の食料自給率を与えて考えさせたいところでした。
日本の食料自給率40%を示した後、合衆国の130%と比較します。合衆国も決して第1次産業の人口比が高いわけではありません。どうしてその違いができるのかといったことを考えさせたいところでした。

三大穀物について簡単に触れた後、日本では第3次産業で働いている人の割合の高いのはどんなところか調べさせます。
どんなところかというのはなかなか難しい問いです。まず、割合の高い地域をピックアップして、そこから考えたいところです。
かなりの時間を与えますが、子どもたちは板書を写すことに時間を奪われています。授業者が「人口が多いところ」という子どものつぶやきを拾って、「いいね」「何で人口が多いの?」と言葉を返しますが、だれも注目していません。その子どもと授業者2人の問題だと思っているようです。子どもの反応がないので、「仕事があったり」と授業者が水を向けますが、やはり反応はありません。子どもたちは答を待っているようです。
時間が無くなったので、授業者が「人口密度が高いところや経済が発展しているところ」とまとめますが、一概にそうとは言えません。何となくで、明確な根拠がありません。きちんと資料をもとに説明するべきだと思います。例えば、愛知県は、人口密度が高く、経済も発展していますが、第3次産業で働いている人の割合は高くないのです。こういった疑問が子どもたちから出なければおかしいのですが、子どもたちは授業者の結論を常に受け入れるだけでした。

子どもたちに根拠を持って考えさせる課題がなく、結論だけを授業者が教える授業になっていました。社会科としてどのような力つけたいのか、そのために課題はどうあるべきか、課題を解決するためにどのような資料や知識が必要か、こういったことを考えてほしいと思います。
今一度、社会科教師としての原点を見つめ直してほしいと思います。

4人の授業を見せていただきましたが、その課題が個々のものか、学校共通のものかはまだはっきりしません。いずれにしても、子どもたちが考える授業をどうすればいいのかについて、全体で考えることが必要だと思います。
夏休みにこのことについて全体にお話ししたいと思います。