公開授業と青少年健全育成会議
- 公開日
- 2012/06/18
- 更新日
- 2012/06/18
仕事
先週末は、学校評議員をしている中学校で、公開授業の見学と青少年健全育成会議への参加をしました。
公開授業での子どもたちのようすを見て、全体的に話を聞くことに集中できていないことが気になりました。一問一答形式での子どもとのやり取り、子どもが聞く体制ができていないのに教師が説明をする。このようなことがその原因にあるように感じました。また、前時の復習の場面で、手が挙がらないのにノートや教科書を調べようとしない子どもや、わかっているのに挙手をしない子どもが目立ちました。数人しか手が挙がらないのに教師が指名して進めてしまうなど、積極的に参加することを求めていないので、子どもたちは受け身で板書を写すことに終始していました。
グループでの活動も、課題が明確でなかったり、根拠を明確にすることを求めていなかったりするため、友だちの意見を聞く必然性がなくて話し合いが止まっていたり、逆に無責任な発言が多くテンションが高くなっていたりしていました。
もちろんすべての授業がそうではなく、同じ学級でも教師によっては違った姿を見せてくれていました。子どもたちの問題というより、教師の側の問題でしょう。授業の形にとらわれて、子どもたちのどのような姿が見たいかが明確に意識されていないことにその原因があるように感じました。
青少年健全育成会議は、通常の会議の他に数年前から地域の大人と子どもたちが一緒になって考える会が設けられています。その中で、大人と子どもの触れ合いの時間が設けられていますが、そこにも少し変化が見られました。
地域の大人1人に対して子どもたち10人ぐらいのグループをつくるのですが、今回は子どもたちがなかなかグループをつくれないのです。仲のよい子が5、6人のグループをつくるのですが、そこから他のグループと合流して大きなグループをつくれません。私が入ったグループも、すぐそばにちょうど一緒になるのに適当な人数のグループがいるのに互いに声をかけ合って合流しようとしないのです。人とかかわる力が落ちてきているように思いました。
大人と一緒に考える場面でも、なかなかうまく話し合いができません。たまたま私が入ったグループは1年生だったせいもあるのでしょうか、ぽつぽつと意見を言うのですが、そこから考えが広がりませんでした。まわりを見ても、似たような状況でした。しかし、このグループの1人は全体の場で2回も自分の意見を発表していました。このことは自分の考えは持っていても、かかわり合って高めるという経験が少ないことを意味しているように思いました。同じようなことを、この日参加された地域の方も感じておられるようでした。毎年参加されてきちんと子どもを見られていることがよくわかります。地域の方がこのような目線で学校を支えてくださっていることは、とても素晴らしいことだと思いました。
今回の話し合いは、自分たちの地域にゴミが捨てられている状況を写真で見て、それについて考えることがテーマでしたが、子どもたちはこのことを、ゴミを捨てる人の問題、環境の問題としかとらえられずに、自分の問題としてはとらえることができませんでした。ゴミを捨てる側の問題ばかりがでてきて、それを見た側の問題、それを放置するのか、拾うのか、どういう行動をとるのかということには考えが至りませんでした。このことは、この日見た授業ともつながるように感じます。自分がわかっていればいい、友だちがわからないのは自分とは関係ない。そのような空気が感じられたからです。教師が意図的に子ども同士のかかわり合いをつくり、人とかかわることのよさを経験させ、他者の役に立つことで自己有用感を持たせることが大切です。学級経営でも、たとえば、遅刻した子どもだけを責めるのではなく、そのことに気づいて声をかけられなかったこと、気づいてあげられなかったことを問題にするなど、他者とのかかわりの中で自分にできることを意識させることが必要になってきます。
ずいぶんネガティブなことを書きましたが、この日少しお話する機会のあった校長も教務主任もこのことはちゃんと気づかれているようでした。次回訪問した時にはきっと違った姿を見ることができると思います。そのことを楽しみにしたいと思いました。