おばあの語り2
おばあの語り11話〜20話
第十一話 新潟校の先生方の熱心な勉強には、本当に驚いたものでございます。
今日は、新潟校や大畑校の先生方が勉強に励んでおられた様子をお話いたしましょうか。
明治の御代になりますと、文部省から生徒に教えることが新しく通知されたのでございます。
新潟校に通っていた平七さんという幼馴染みから聞いた話でございますが、「綴字(かなづかい)」、「習字(ならいじ)」、「文法」のほか、「洋法算術」という西洋の計算方法や、「地学読方」と申しますから、今の日本地理でございます。さらに、西洋の衣食住、福沢諭吉様の「学問のすすめ」などを読み上げる「読本読方」、今の保健のような「養生百授」など、先生方にとりましても、まったく新しい学問を生徒に教えなければならなくなったのでございます。また、全部の教科に前にお話ししたような教科書が作られたのでございます。
新潟校の先生ではありませんが、「教科書は、理解できないところが多い。私は愚鈍で教育者の材ではないから、辞職のほか道はない」と周囲の者にもらすなど、自信を失われていた先生が多かったようでございます。こんなとき、新潟者(にいがたもん)は、すぐ気弱になるのでございますよ。
ちょうどそんな折、文部省のお役人の西方様が新潟に来ておられ、たまたま、大畑校の授業の様子をご覧になる機会がございました。大畑校の先生方の教え方が昔の寺子屋の教え方のままであったので、直す必要があるとお感じになられ、すぐに新潟の五つの小学校の教員を集めたのでございます。そして、一緒に来ていた東京師範の森山様に生徒を相手に模範授業をさせなさいました。新潟の五つの学校の先生方は、初めて見る教え方に感心さなったのだそうです。
こうなると新潟者は強いと申します。先生同士が、実際に教室で掛図や黒板を使い、互いに生徒になったり、教師になったりして、見聞きした教え方を、何回も何回もおさらいしたのでございます。夜遅くまで、ろうそくの灯が学校に揺れていたと申します。
それにしても、新潟校や大畑校の先生方の熱心な勉強には、本当に驚いたものでございます。
その教え方でございますか。
それでは、明治のころの学校の教え方について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十二話 鞭をもって掛図を指して一人を指名するのでございます
明治のころの学校の教え方についてお話いたしましょうか。
まず、驚いたのは、教室の前の黒板と、机とイスでございます。寺子屋は畳でございましたから、新しい心持ちがいたしました。お婆が見た授業は、おおよそ次のようなものでございましたよ。
まず、先生が鞭をもって掛図の漢字を指して、一人を指名するのでございます。指名された生徒は立って、その漢字の読み方を大きな声で唱えます。先生が正しいか間違っているかをおっしゃいます。その後、全員で一斉に、その漢字の正しい読み方を唱和いたします。ただ、全員の読み方が速すぎるときは、鞭で床をたたき、読み方の速さを調節なさるのでございます。
また、石板を使う授業もございました。最初に先生が鞭で、掛図を指して全員に質問します。生徒は自分の石板にその答えを書きつけるのでございます。そのあと、先生は一人を指名なさいます。指名された生徒は自分の石板を先生のところへもっていきます。すると、先生は、正しいか間違っているかを全員に向かってお話され、正しいものを教えてくださいます。間違っていた者は、もう一度石板に正しい答えを書くのでございます。このほか、計算練習や九九についても、学級全員で一斉に唱え、暗唱するのでございます。
また、別の形の授業もございました。先生が、掛図の鳥の羽を鞭で指して、「これは何か?」と聞きます。生徒が「羽根です」と答えると、先生は「そうである。ではこの羽根はどこからきたのか?」とさらに聞きます。生徒は「鳥の体から抜いて、持ってきたのです」と答えるといった問答が繰り返されていくのでございます。お婆は、このような授業の方が見ていて楽しゅうございました。ただ弟の信作は、鞭の音がすると、ピックとお婆の背中で目覚めるのでございますよ。
とにかく、生徒さんたちは、一生懸命に勉強に励んでおられました。
生徒さんがどのくらい勉強したかを調べるため、このころにすでに、学力テストがあったのはご存じですか。
それでは、学力テストのことについて、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十三話 「令殿の大試験」でございます
それでは、学力テストのことをお話いたしましょうか。
永山県令様が直々にお出ましになり、毎年試験をして、成績優秀なる生徒には褒美を与えるというものでございます。人呼んで、「令殿の大試験」でございます。
最初は明治9年でございました。新潟の五つの学校の生徒が全員、西堀通七の浄泉寺に集められました。そこで、等級別に試験を受けたのでございます。採点が行われ、成績のよかった生徒は、県令様から褒美として賞状と賞品をいただいたのでございます。反対に、成績の悪かった生徒は等級を下げられたのでございました。そのため、生徒は一所懸命おさらいをしたのでございます。
それから、褒美をもらう生徒をたくさん出した先生は、即刻給料が上がったと申しますから、先生方もうかうかとはしておられなかったのでございます。
それでは、どのくらいの生徒が褒美をもらったかと申しますと、明治11年の大試験では、新潟校の生徒は398人が受けて、永山県令様から褒美をいただいたのが211人でございました。割合でいうと、5割3分でございます。新潟の学校全体で1等賞をもらった生徒が10人いたのでございますが、そのうち7人は新潟校の生徒であったといいます。幼馴染みの平七さんも、受けたことは受けたのでございますが、褒美をもらえなかったということで、残念がっておりました。そういえば、平七さんは用もないのに、何かにつけ、お婆のところへ来て、いろいろなことを話してくれました。島崎藤村様の「初恋」という詩が、発表されるの19年も前のことでございます。
まあ、その話はいいとして、この大試験はあらかじめ「新潟新聞」に予告がのせられ、参観を希望する者は誰でも自由に見てよいとされておりました。父が申しますには、永山県令様が教育奨励を万民に示そうと行ったことだということでございます。
報道を使いこなすなど、永山県令様は、本当に頭のよい方でございました。
県令様のことでございますか。
それでは、県令様について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十四話 教育県令と呼ばれていたのでございます
今日は、県令の永山盛輝様のお話をいたしましょうか。
永山様は、薩摩藩のお侍さんでございます。なんでも、薩摩藩の勘定奉行を勤められた方で、戊辰戦争にも従軍したと聞いております。明治の御代に、新政府の大蔵省や民部省のお役人になり、筑摩県と申しますから、今の長野県で県令におなりになりました。
「教育県令」とあだ名されるほど、それはそれは教育に御熱心な方でございました。そのとき、お建てになったのが、松本の開智学校でございます。永山様は、子供たちを学校へ上げさせることに、お力を注がれました。そのせいで、当時の長野では、子供たちが小学校へ上がる割合は、東京・大阪をしのいで全国一高かったのでございます。
その後、新潟県令となって、この地に来られたのでございます。
永山様が新潟県に来て驚いたことは、小学校入学率の低さでございました。特に、男尊女卑の風習が長く続いた新潟県では、なかなか女子の小学校入学の率が上がらなかったのでございます。
永山様は、早速対策をお取りになりました。まず、学校に上がっている子供と上がっていない子供の名簿を県全体で作らせたのでございます。そして、毎年5月と11月に、小区長に言いつけて、学校へ上げなければならない子供の親を集め、入学を強く進めたのでございます。さらに貧しい家には、文房具などを下しおかれました。特に女子をたくさん入学させるために、女の先生を雇い、小学校に裁縫科を創ったりもいたしました。新潟の町では、これが好評でございました。
こんなこともありまして、永山様が新潟をころには、多くの女子が学校へ上げるようになったと申します。
永山様がお書きになった「新潟校」という額が、今でも新潟小学校の教務室の正面に飾られているとのことでございます。
永山様は、その後、衆議院議員となられ、最後は男爵までのぼられたと伺っております。
これらは、すべて、新聞を読んだ父の雅之介が教えてくれたことでございます。当時、外国を相手にお茶の輸出をしていた父親にとって。新聞は大切な情報源でございました。
父の仕事がどうなったかでございますか。
それでは、父の仕事についてとりとめのかい話をいたしましょうか。お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十五話 新潟の町は、このように外国の風が感ぜられる町になっていったのでございます
父のお茶の輸出の仕事のお話をいたしましょうか。
当時、村松藩の士族の方々は、お茶の産業を盛んにするため、至誠社という会社を創っていたのでございます。新潟の茶商に婿入りした父は、村松にいたころに親しかった士族の方々と一緒になって、紅茶を外国にへ輸出しようとしたのですよ。横浜まで、紅茶の作り方を習いにいった甲斐もあり、紅茶の製品化も進み、アメリカのニューヨークへの輸出も行われました。なんでも、紅茶は一旦、新潟港から船で横浜へ運ばれ、そこからアメリカに向けて船に乗せられたようでございました。
しかし、武士の商法というのでございますか、県から村松の士族の方に下されていたお金が、来ないようになり、結局紅茶づくりを止めておしまいになりました。
この時、祖父は父の雅之介に諭したのでございます。「俄か商人のお侍様に頼っているからこういうことになるのです。お前も、新潟の茶商人になったのです。本当に紅茶で商売をしたかったら、昔から茶を作り続けてきた村松のお百姓さんの話をきちんと聞いてきなさい。新潟商人は、そうやってていねいに商ってきたものです。」
いつも所在なさげに見えた祖父の康太郎でございましたが、この時ばかりは、新潟商人の神様が乗り移ったように威厳があったものでございます。これから、父雅之介の村松通いが始まります。祖父の教えを守り、村松のお百姓さんや茶商人と寄合を重ねていったのでございます。なにせ、村松の3割の方々はお茶づくりを行っていたと申しますから、軌道にさえ乗れば大きな商いでございます。永山県令様が新潟を去るころには、村松茶の半分くらいが外国へ向けて、横浜まで運ばれていたと聞いております。
こうして、傾きかけた羽州屋も、ようやく持ち直してきたのでございます。
あまり、父を褒めない祖父でございましたが、この時ばかりは、友達に婿の自慢をしていたと、祖母の郁がうれしそうに話してくれました。新潟の町は、このように外国の風が感ぜられる町になっていったのでございます。
ちょうどそんなころでございました。この町に明治天皇の行列がお出ましになったのでございます。
それでは、天皇陛下の行列について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十六話 新潟区でございます
明治天皇の行列が新潟へ来られるというので、県のお役人から細々とした命令が出されたのが、明治11年6月でございました。その命令というのは、街を清潔にすること。特に見苦しい物は隠すこと。準備の品は、できるだけ新品すること。天皇陛下に見ていただく書画骨董や土地の産物を並べておくことなどでございました。
陛下のお泊りになる場所は、礎町通六ノ町の白瀬様の別邸でございました。今の礎公園での場所でございますよ。何でも白瀬様は、建築中であった別邸が陛下の宿泊所に指定されると工事を急ぎ、大邸宅を完成されたと申します。また、お付きの方々は、その近く物持ちの家や豊照小学校などに泊まることになったのでございます。
実際に行列が新潟に入ったのは、9月16日でございました。行列は、一番掘通から本町通に入り、ゆっくりと下り、鏡橋を渡って礎町通で折れて、白瀬様の別邸に着いたのでございます。門には紫色の縮緬の幕が掛けてあり、陛下の居間はビロード敷きで、蒔絵や紫檀、黒檀、青磁の工芸品が置かれていたと申します。そうそう、庭に池があり、500ほどの鯉が泳いでおり、陛下はその池で釣りを楽しんだとかお聞きいたしました。
この時、学校の生徒さんたちは、白瀬様の近くの空地に勢ぞろいして陛下をお迎えし、手を合わせて陛下を拝んだのでございます。
陛下が新潟におられたのは3日間でございました。その間、県庁や新潟医学所、裁判所を訪れたり、白山公園の中にある物品陳列所で新潟の時計職人が作った大形八角大時計や亀田の木綿、佐渡の花瓶などをご覧になられたりいたしました。
また、近郷近在からたくさんの見物の方々で新潟の町はあふれかえったのでございます。
この様子を見た父の雅之介は、少し興奮気味に、「天皇陛下の治める近代国家がいよいよ動き始めた。」と話しておりましたが、祖父の康太郎はいつもながら、「徳川様の御代がなつかしいわい。」とたばこをふかしているだけででございました。こんなとき、母は、祖父の意見にうなづきながらも、視線を父に優しく送っていたものでございます。母は、お文と申します。羽州屋の跡取り娘で、気丈な人でございました。
次の年、明治12年に、新潟は新潟区となるのでございますが、その年は、新潟にとって災難が続いたのでございます。
それでは、災難について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十七話 新潟大火でございます
明治12、13の両年は、四番掘校、すなわち新潟校にとって、ひどい年でございました。
まず、明治12年6月、東堀通五番町から出火して749軒を焼き、7月には東堀通三番町から出火して816軒を焼いたのでございます。
さらに悪いことに、同じ年、愛媛県から広がったコレラが7月に新潟に入ってまいりました。今でも特効薬のないコレラのこと、このころの人々の不安は、それはそれはひどいものでございました。
11月まで猛威をふるったコレラの死亡者は、新潟区だけで430人に上りました。このため、新潟校では、9月15日まで臨時休業となったのでございます。
翌明治13年は、もっとひどい年でございました。8月7日のことでございます。真夜中の1時過ぎ、上大川前通6番町から火の手が上がったのでございます。折からのだしの風にあおられ、火はまたたく間に燃え広がり、16時間燃え続け、夕方の5時にやっとおさまったのでございます。新潟大火でございます。
そして、営所通と新津小路を結ぶ線より下町側の民家六千軒を焼き尽くしたのでございます。
さらに、焼失したものとしては、県庁、区役所、郵便局、電信局、警察署、国立銀行、そして、「公立第三番小学四番堀校」と名前を変えていた新潟校がございました。この時、新築中の校舎も、仮住まいしていたお寺もすべて灰になってしまいました。
お婆は母に起こされ、眠い目をこすりながら、祖父母と父母と弟の6人一緒に西堀校に逃れたのでございます。一月ほど、そこで暮らしておりましたか。こんなとき、一番頼りになるのが、母のお文でございました。この西堀校は、大畑小学校の前身でございますが、火事の3か月前に新築落成しておりました。火は西堀校の道一本はさんだ所でとまったのでございますよ。ありがたいことでございます。
四番堀校以外の四つの学校は類焼をまぬがれましたので、生徒をすべて四つの学校へお願いしたのでございます。
その後、四番堀校がどうなったかでございますか。
それでは、その後の学校について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十八話 1年4か月の間、閉校となったのでございます
新潟大火によって焼けた四番堀校は、その後1年4か月の間、閉校となったのでございます。
さらに、打ち続く火災や水害、コレラへの手当などが、新潟区の会計を圧迫し、一人四番堀校への影響だけに留まりませんでした。
それと申しますのも、区長様は、「学事をきちんとすることは確かに急務であるが、今はとりあえず目の前の被災民を救うことの方を優先しなければならない。その費用を捻出するため、一旦教職員を全員解雇し、必要に応じて漸次採用する。」という復興方針をお立てになったのでございます。お苦しい選択であったものと思います。結果としては、全教職員が一旦解雇されたものの、選抜され即日採用された者も多く、結局解雇されたのは11名でございました。
これを機に学校の改革も行われました。12月区会で五つの学校を一つの学校にまとめ、本校と四つの分校にすることが決議されました。このとき、四番堀校が本校になることが決まったのでございます。
いずれにいたしましても、明治14年は、新潟校にとって大切な年でございました。
12月に和風二階建ての新しい校舎が建てられたのでございます。教室が16もございました。
このころになると、女の子でも学校へ上がる者が出てきました。お婆でございますか、お婆は残念ながら、学校へは上げてもらえませんでした。それと申しますのも、もう14歳になっておりましたし、祖父が「女が学校に行ってどうする。」というようなことを言う人でありましたので、難しかったのでございます。父親の雅之介は紅茶の輸出を手掛けるほどの人でございましたから、学校へ上げたかったようでございます。ただ、婿の立場で祖父には強く言えなかったのでございます。お婆が本心を隠して、「学校いくより、家の手伝いをする方がいい」と言うと、辛そうに眼をそらしたのでございます。
なんだか、湿っぽい話になってしまいました。気分を変えるため、新潟町校の開校式について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第十九話 新潟町校でございます
新潟町校の開校式の話をいたしましょうか。初めて校名に「新潟」の名前がついたのでございますよ。なんだか、お婆もうれしい心持ちがいたしました。
新潟町校の本校は新潟校でございます。分校は四つあり、第1分校が鏡淵校、第2分校が西堀校と呼ばれた後の大畑校、第3分校が洲崎校、第4分校が豊照校でございます。
明治15年9月に、新潟町校の開校式がとり行われました。それはそれは華々しいものでございました。なんでも九鬼少輔様という文部省の偉い官員様が新潟へお寄りになったのを機会に式を行ったということでございます。この他に永山盛輝県令様など参列者は200人もいらしたとのことでございます。
父から聞いた話では、九鬼少輔様は、九鬼隆一様と申され、少輔というのは文部省の事務次官でございます。なんでも、文部省の中では、文明開化主義教育に反対し、伝統主義教育を進めた方で、強い力を持っておられ「九鬼の文部省」という言葉もあったとかお聞きしております。ただ、開化主義の福沢諭吉様と仲が悪く、福沢様は周囲に「九鬼の存在は座上に犬ころがいるようなものだ」ともらしたとか。
父親も開化主義の人だったため、福沢様の言葉を喜んでいる風でございました。ただ、祖父は「何でもかんでも西洋かぶれの福沢のどこがいいのですかね。」と、わざと父に聞こえるように言っていたものでございます。こんなふうに、祖父の康太郎と父の雅之介は、何かにつけて考えが違うようで、母の文も心を痛めていたようでございました。
そういえば、このころ学校のきまりが作られたのでございます。
それでは、学校のきまりについて、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十話 「生徒心得」が印刷されて生徒に配られたのでございます
今日は、学校のきまりについてお話いたしましょうか。
お婆の目から見ましても、明治の御代の生徒さんたちは、本当に脊筋がぴんとのびていたように思います。それというのも、みなさん、先生の言いつけやきまりをよく守っていなさいました。
明治15年、お婆の弟の信作が新潟校に上がった年でございます。この年に「生徒心得」が配られたのでございます。この心得を生徒さんは全部憶えておりましたし、お婆も弟から見せてもらって憶えたものでございます。全部で28条ありましたが、幾つ思い出せますか、お婆が聞きおぼえているものを、お話しましょうか。
まず、家の中のきまりがございました。
○第6条
毎朝早く起き、衣服を着け、たらいをすすぎ、髪をくしけずり、父母長上の安否を問い、朝げを終わらば昇校の用意をなし、書籍・石盤・筆・紙等課業必需の物品を取り揃うべし。
これは、早起きして、服を着て、顔を洗い歯を磨き、髪をとかし、お父さんお母さんにあいさつをして、今日は元気かどうかを聞き、朝食が終わったら、教科書・ノート・筆など学校へ行く準備をしなさいというほどの意味でございます。
○第8条
家を出、また家に帰りたるときは、必ず父母長上に面し一礼すべし。
家から出るときや家に帰ってきたときは、必ず父や母、祖父や祖母、兄や姉などの目上の人には、一礼してあいさつをしなさいというものでございます。
やはり、学校の中のきまりが一番多くございました。
○第4条
教師は我に学業を教えるところの恩人なれば、あくまでこれを敬重すべし。
先生は勉強を教える恩人だから、大切にし、言うことを絶対聞かなければならないというものでございます。
○第16条
教場にありては、教師の許可なくみだりに発言、または席を離れるべからず。教師の教授に専念すべし。
教室では、先生の許しがなく発言してはならない。さらに、許可なく席をはなれてもならない。先生の授業だけにすべての神経を集中させなさいというものでございます。
今、聞いても当たり前のことでございますし、今でも大切にしたいものでございます。
新潟校の生徒さんは、この心得をよく守るすばらしい生徒さんでございました。
そのためでしょうか。このころ新潟校が文部省からご褒美をいただいたのでございますよ。
それでは、ご褒美について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)