おばあの語り8

おばあの語り76話〜88話

第七十六話 新潟大火でございます


  昭和三十年十月一日は、暑い日でございました。前日、台風二十二号のせいで強風注意報が出されていたばかりか、フェーン現象のため火災警報も出されておりました。夜中の二時半ころでございましたが、、そのころ医学町にあった県の教育委員会の建物から出火したのでございます。火の勢いすさまじく、八時間以上燃え続けたのでございます。一一九三世帯、五九〇一人が焼け出されたと申します。
  どの学校も類焼を免れましたが、新潟校の子供二九〇人の家と礎校の子供二二四人の家、それに大畑校の一人の家が全焼いたしました。また、新潟市の大きな建物が焼失いたしました。主なものをあげますと、新潟市役所、新潟日報社、小林百貨店、大和百貨店、小林映画劇場、新潟郵便局、日本生命新潟支社、住友生命新潟支社、三井生命新潟支社、北越銀行新潟支店、竹山病院、大和証券など、新潟の繁華街ほとんどが焼失したのでございます。幸い死者はございませんでしたが、行方不明一名、重傷三十五名、軽傷百四十名でございました。
  早速、寄居中学校、白山小学校、礎小学校、豊照小学校が避難所になり、五百世帯、二千二百人の被災者を収容したのでございます。避難所は一週間にわたって開設されたのでございます。
  この火災で最も危なかった学校は、礎小学校でございました。しかし、礎小学校の先生方は校長先生の指示のもと、見事にその難を逃れたのでございます。実は、火災前日の九月三十日には、新潟市教育委員会から台風通過に伴う校舎防護の指令が出されておりました。重野幸校長は、この時、全職員に防火体制や校舎巡視の指示を与え、宿直員にも細かな注意を与えておりました。日が変わって午前三時過ぎに火が出たと聞き、校長はただちに出校し、重要書類搬出準備を完了して待機していたのでござます。午前4時に職員ら二十六名が出校し、書類は荷車に積み、いつでも運び出せるよう、布団を被せて防火措置をしておりました。さらに屋根の高みや校舎のここそこに見張りを置き、その通報により中庭に落ちてきた火の粉の吹き溜まりをもみ消したりしておりました。そのうちに、校舎の屋根から白煙が上がったのを保護者が見つけ、ただちに校長の指示で、職員や公民館長、市教委の職員、県立商業高校の生徒、町内の有志らが、一丸となってバケツリレーで消し止めたのでございました。さらに、月町側階段下のひさしが燃え始めたのを発見し、これもバケツリレーで消火したのでございます。ところが、このあと玄関付近教室の腰板から煙が上がったのを発見したものの、消火困難と判断し、腰板をはがして難を逃れたのでございます。校長先生以下、職員、地域住民の皆さんのお働きは、すさまじいものがございました。
  それからしばらく、新潟は市民あげての復興の日々が続きました。新潟市民は強いのでございます。黙々と働いたのでございますよ。
  それから三年たち、市民の生活、学校の生活も普段に戻ったころ、新潟小学校の分校がはまぐみ学園にできたのでございます。
  それでは、はまぐみ学園分校のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十七話 新潟校の分校がはまぐみ学園に置かれたのでございます


  今日は、新潟校の分校がはまぐみ学園にできた話をいたしましょうか。
  ことの起こりは新潟大学医学部整形外科の河野左宙先生でございました。それまで、肢体不自由の子供さんについては、重度な者は学校で教育を受けることができず、学校に行くことを猶予されたり、免除されたりして、家庭で過ごすのが通常と考えられておりました。もちろん、そのような子供さんの教育が大切であるとは分かっておりましたが、なかなか具体的な動きにまでは発展しておりませんでした。
  河野先生は、昭和27年に開かれた学校保健研究大会で、「肢体不自由児の教育について」という講演して、早期医療と早期教育を強く訴えたのでございます。つまり、肢体不自由の子供さんを早めに発見し、早めに治療や訓練を行うことが重要であり、その子供の幸せにつながると考えたのでございます。そこで、ご自分の研究室のスタッフを中心として、県内の保健所と連絡をとりながら、相談会などを開いて、早期発見に努めておりました。その甲斐あって、1500人の肢体不自由のお子さんが新潟県にいることが分かりました。
  これらの子供たちも勉強したいという気持ちをもっておりましたし、その親御さんたちも適切な訓練を受けられること強く望んでおりました。それらの方々を中心に、昭和30年に肢体不自由児協会が誕生するのでございます。この協会は熱心な運動を繰り広げ、教育に関係する方々や医療に関係する方々に、早期医療・早期教育の必要性を訴え続けたのでございます。
  その甲斐あってか、昭和33年には、県下初の肢体不自由児医療施設「はまぐみ学園」が誕生したのでございます。そして、肢体不自由の子供たちが治療を受けながら勉強できるようにと、新潟小学校・寄居中学校の分校がはまぐみ学園に作られ、「はまぐみ学園分校」と名前を付けられたのでございます。
  はまぐみ学園の竣工は昭和33年7月15日、はまぐみ学園分校の開校は、その3日後の7月18日でございました。この分校の先生は4人でございました。一番喜んだのは肢体不自由の子供さんたちでございましたよ。
  この年、料亭川善に悲しい出来事がございました。夫治助が他界したのでございます。病名は肺がんということでございました。明治、大正、昭和という新潟の激しい変わり様をやさしい目で見続けてまいった夫でございました。悲しいことでございますが、これ以上言いますまい。
  あそうそう、はまぐみの分校の話でございましたね。はまぐみに分校を開いた新潟校は、その後新しい校舎に生まれ変わるのでございます。
  それでは、新校舎のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十八話 新校舎が完成したのでございます


  今日は昭和の校舎の話をいたしましょうか。もちろん今立っている校舎の前の校舎のことでございますよ。昭和の校舎ができたのは、栃倉巧・久保田収蔵両校長先生の時代でございました。昭和三十年に仮杭打ちが行われ、その一か月後に市長様が来られて地鎮祭が執り行われました。昭和三十年の第一期校舎完成に始まり、昭和三十四年の第六期校舎をもって完了したのでございます。
  そもそも校舎建設の発端は、新潟校の子供が身長も胸囲も貧弱で、体力テストの成績がばかに劣っているということでごいました。それというのも、専用のグラウンドを持たず、生徒さんが運動する場所がないためだというのでございます。そのためには、グラウンドを備えた新校舎改築が急務というお考えでございます。
  新築決定までにも紆余曲折があり、そのため時のPTA会長さん方が御苦労されたと伺っております。特に補助金の権限を握っている文部省に対しては何度も足を運び、ついに文部省のロビーに「新潟小学校の腐朽校舎」という題名の写真が掲示されるまでになったといいます。さらに、嘘か本当かは分かりませぬが、木造校舎の積雪耐久度テストに来た積雪対策連合会理事の方の計測結果の数字を手直ししたということもまことしやか言われたものでございます。また、雪が降ったときなど、さして危険でもないのに、体育館を使用禁止にして、大々的に家庭や地域、市の教育委員会に改築の必要性を訴えたなどの話も、さも本当にあったように伝わっております。
  そうそう、この校舎新築が、ある発見につながったことも忘れられません。それは、古い校舎を壊したとき、東側階段の下から「お宝」が見つかったのでございます。それまで、新潟市内で一番古い学校と言われていながら、証拠文献がなく、「明治三十七年を以て開校式‥」という記録によって、創立が有象無象になっていたのでございますよ。それが、「学校沿革史」五冊が発見されたのでございます。そこには、墨痕鮮やかに「明治六年三月二日創立」の文字が書かれていたのでございます。思えばこの沿革史が、人知れず階段の下で、たくさんの生徒さんの足音を聞きながら、ひっそりと時代の風を避けながら、発見の時を待っていたのでございます。これを発見した山口正敏事務員様のご功績は、たいしたものでございます。
  それにいたしましても、どなたでございましょうね。紛失したら校長の首が飛ぶといわれる沿革史をこのようなところに放っておいたのは。もしかしましたら、沿革史をGHQに見つかるのを恐れ、隠しておいたのかもしれません。なにせ、戦争直後は、ひどい噂が喧伝しておりましたものねえ。
  ところで、このころ新潟祭りの百壱番組ができたのを御存じでしたか。
  それでは、百壱組のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第七十九話 百壱番組の誕生でございます


  今日は百壱番組のお話をいたしましょうか。百壱番組というのは、新潟祭りの住吉行列を守る組の一つでございます。
  江戸時代は、新潟町の五十一の町内を二十二組に分け、一番組から八番組が昼の祭りを、九番組から二十二番組が夜の祭りを担当していたと聞いております。特に湊元神社を有していた洲崎町を中心とした地域が一番組であり、住吉行列の総元締めをなさいました。それに、二番組から八番組までの組が付き従って行列を供奉したのでございます。
  明治になり、湊元神社が白山神社に一緒に祀られるなど、様々な変遷をたどりながらも、住吉行列は続くのでございますが、大正の御代になると、米騒動や不景気のためでございましょうか、住吉行列から手を引く番組が増えていったのでございます。その結果、大正の住吉行列は、前の行列を一番組が守り、後の行列を九番組が守るという寂しいものになったのでございました。そして、昭和の御代、太平洋戦争に突入すると住吉行列は行われなくなったのでございます。
  しかし戦後、住吉行列は本町の市場業者の方々が中心となり、復活いたします。そして、昭和二十七年からは、番組が交代で行うやり方に戻ったのでございます。しかし、その後、新潟市の祭りへの補助が減らされたころから、五番組が抜け、六番組が抜けるなど、供奉する組が減ってまいりました。そのため、白山神社が自ら指揮をとる形で、おひざ元の八番組が、供奉に従ったのでございました。昔日の繁栄の面影はございませんでした。
  ここで、百壱番組の登場でございます。これではいけないと思った営所通り、東堀五・六、古町五・六番町の中央商店街の方々が新しい組、百壱番組を作って、昭和三十八年に住吉行列の供奉をとり行ったのでございます。そして、昭和四十四年には、新潟小学校の学区全体をとりこみ、百壱番壱番組新潟小学校区振興会となり、小学校区を単位とした番組が作られるのでございます。このころからでございましょうか。八番組と百壱番組とが、二年交代で住吉行列の供奉を務めるようになります。八番組は白山小学校と白新中学校の生徒さんが、そして、百壱番組は新潟小学校と寄居中学校の生徒さんが行列を作ったのでございました。平成の時代が始まったころからは、昔の大畑小学校区の皆さんも百壱番組の仲間に入り、平成の二十一年からは、旧礎小学校区の皆さんも仲間に入ったのでございます。
  このようにして、住吉行列は、今でも新潟夏の風物詩となっているのでございますよ。
  それはそうと、このころ、新潟校で「学校だより」が発行されるようになったのをご存じでしたか。
  それでは、「学校だより」のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十話 学校だより創刊でございます


  今日は、新潟校の学校だよりが創刊されたお話をいたしましょうか。当時の校長の遠藤稔様は、非常に先を見通す力のある方でございました。常々学校と家庭が共に子供さんたちの教育に当たれないものかと考えておられ、そのために報道というものの果たす役割に大きな期待をかけていたとお聞きしております。遠藤様は、新潟校の校長として一年が過ぎた昭和三十八年、いよいよ「学校だより」を発刊することにしたのでございます。
  お婆の茶箪笥の奥には、「学校だより
  にいがた」の創刊号が今でも大切にしまってございます。久々にとりだして、皆さまにお話いたしましょうかね。当時の学校だよりの題名は、今のように漢字で書くのではなく、「にいがた」とひらがなのゴシック体でございました。創刊日は昭和三十八年四月二十日。遠藤様は、「はじめに」の中で、「この『学校だより』はこれを第一号として毎月お届けしたいと思います。ご家庭と学校が手をとりあっていくためのものです。これからのものも保存のうえ、学校への御支援御指導に資していただきとう存じます。」と書いておられます。以後、新潟校の学校だよりの巻頭言は、校長が書くという厳しい掟ができたのでございます。記事は、校長先生の「はじめに」のほか、「四月主要行事」「健康診断の意義」「四月のきまり」「転任先生挨拶」「今月の目標」「給食のおやくそく」「献立予定表」「校時表」「校舎図」となっております。
  このうち「四月のきまり」には、「1退校時間時間をよく守って居残りがないようにする、2落し物をなくするために持ち物に名まえをつける、3窓から顔をださないこと、4廊下で大声をたてないこと、5
  紙くずは見つけたらすぐ拾ってすてること」が書かれております。この「きまり」は、各学年の担任の代表と用務員の代表、調理員の代表が毎月集まって話し合いを重ねて作るのでございました。このころの給食の献立表も楽しゅうございます。四月十一日には、あの新潟名物「スパゲッティーイタリアン」が出されましたし、十五日には「のっぺいじる」が出されております。昔から、新潟校の調理員の先生方は工夫に工夫を重ねた給食を出されていたのですねえ。
  そうそう「転任先生挨拶」には、上所校から来られた栗林貞夫先生の写真と文章がのってございます。お見かけした時から、なんと形のよい殿御よと感心したものでございますよ。「初めて子どもたちと接したとき可憐な瞳の輝きの中からはっきりと新しいものに何かを期待し、望んでいる気持を感じました。」いい文章でございます。この方が、後に新潟校の校長先生とした、お戻りになられるのでございます。
  それはそうと、このころ新潟校に鼓笛隊ができたのを御存じでしたか。
  それでは、鼓笛隊のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十一話 鼓笛隊が新潟国体で演奏したのでございます


  今日は鼓笛隊のお話をいたしましょうか。新潟校の鼓笛隊は昭和三十六年につくられました。それはそれは厳しい練習が行われたと申します。その年に鼓笛隊の旗も作られ、二か月の猛練習の後、内野小学校で模範演技を行ったのでございます。
  この後、新潟校鼓笛隊は、様々な舞台で演奏活動を行います。まず、昭和三十七年には、横浜市の健民少年団が新潟市を訪れたおり、歓迎演奏を行いまいましたし、新潟校の創立九十周年記念式でも、鼓笛パレードを行ったのでございました。
  実を申しますと、この鼓笛隊は、新潟国体のために作られたのでございます。昭和三十九年は新潟国体一色の年でございました。四月から国体に参加する六年生の鼓笛と三年生のマスゲームの練習が合同で行われたり、五月には二日に渡って模擬国体が行われ、新潟校の子供も観客として参加したのでございます。その際、お行儀よく観覧するために、競技の見方というパンフレットがすべての生徒さんに配られたのでございます。パンフレットといえば、県外からのお客様をもてなすために、親切運動の案内パンフレットも全校の生徒さんに配られたものでございます。また、新潟校は新しい体育館をもっておりましたので、国体に参加する体操選手の練習場として使われたのでございます。
  さて、いよいよ国民体育大会本番。新潟校では、六月一日から十五日まで特別に一日四時間授業の時間割が組まれたのでございます。六月一日は、四年生以上が天皇皇后両陛下をお迎えする練習、二日は四・五年生が海岸清掃、三日は国体旗リレーの歓迎練習がそれぞれ行われました。そして、五日には、新潟にお見えになった天皇皇后両陛下を東中通りで小旗をもってお出迎えをいたしました。同じ日に国体の旗も無事新潟に到着し、このほうも新潟校の前で全校で並んで出迎えたのでございました。
  六日は、国体の開会式でございますよ。陸上競技場に市内二十五小学校の二千五百五十人の六年生が鼓笛パレードをいたしました。曲目は「ドラムマーチ」「新潟国体の歌」「佐渡おけさ」「三階節」でございました。また、市内十五小学校の二千百九人の三年生が「雪ん子の春」というマスゲームを演じました。
  このような晴れ舞台、六年生の鼓笛は新潟の空に響き渡りましたし、三年生のマスゲームは一糸乱れずに演技し、双方ともそれそれは立派でございました。お婆も、白山の陸上競技場におりまして、これを見ましたが、何とはなしに涙が出てまいりました。
  しかし、人の世とは不思議なもの、国体が立派に終わった次の日でございました。あの新潟地震でございます。
  それでは、新潟地震のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十二話  新潟地震でございます


  今日は新潟地震のお話をいたしましょうか。そのころ、新潟校には千人もの生徒さんがおり、26の学級がございました。そんな新潟校を新潟地震が襲ったのは、昭和39年6月16日でございます。あの関東大震災以来の大地震でございました。
  新潟校に大きな揺れがきたのが、午後1時5分ころでございましたでしょうか。給食も終わり、みなさん校庭で遊んでおりました。ぐらぐらという地面のうねりにより、すぐに電気は切れ、非常ベルもならなかったのでございます。そんな中でございました。鐘の音が聞こえてまいったのでございます。それは、振鈴というものでございました。昔時刻を知らせるために手で振って音を出していた鈴が、鳴り響いたのでございます。その鐘を聞いた生徒さんは、すぐに口を閉じて先生方の言葉を待ったのでございます。全員が校庭の真ん中に集められ、低学年を中に入れて、その周りを高学年の生徒さんが囲んだのでございます。高学年の生徒さんは、時折低学年を気づかいながら、それはそれは凛々しく見えたものでございます。それゆえか、高学年に守られた低学年の生徒さんは、大きな余震が来ても、誰ひとり泣きだす者はおりませんでした。そのうちに、「津波がくる」という声が学校の外から聞こえてまいりました。すぐさま、学年にごとに、屋上避難の指示が飛びました。そして3時間半、ようやく余震も無くなりました。そこで午後4時半、生徒さんを町内子ども会別に分け、先生方が付き添って家まで送ったのでございます。
  最後の山の下地区の生徒さんを送り届けたのを確認したのが、午後8時でございました。新潟校の校舎の被害は、体育館の渡り廊下に大きな亀裂が入ったことと、浄化槽が壊れた以外、大事には至りませんでした。しかし、生徒さんの家は半壊が35、床上浸水41、床下浸水119というように、水の被害が多かったようでございます。地震の日から新潟校は臨時休校となり、6月22日に全校生徒が集められたものの、7月4日までは半日授業が続いたのでございます。
  それにしても、有事のときにこそ、人の価値が分かるともうしますが、このときの新潟市の先生方は大したものでございました。1900人の先生のうち、836人が被災されたにもかかわらず、学校が臨時休校の間も、一日も休まず、学校の復旧に全員で当たったのでございます。頭が下が いでございます。
  それはそうと、三校プールというものがあったことは、ご存じですか。
  それでは、三校プールについて、とりとめのないお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第八十三話 三校プールでございます


  今日は三校プールのお話をいたしましょうか。今は二校プールと呼ばれている消防署の前のプールのことでございます。当時の水泳授業は皆、浜で行っておりました。しかし、安全に水泳力を高めるために学校にプールを作ろうという話が持ち上がったのでございます。昭和38年のことでございました。その年の5月に寄居中・礎小・新潟小の三校のPTAが中心になり、プール設置の陳情が始まったのでございます。
  しかし、新潟地震により、その運動も休止していたのでございますが、昭和40年に陳情運動を再開することにいたしたのでございます。9月には三校プール建設委員会が発足し、敦井栄吉様が会長に就任されました。新潟の財界に影響力をもつ敦井様の就任は、プールが現実のものとしてPTAの皆さんの目に映ったことでございましょう。10月には、三校プール募金が始まり、子どもたちもプールが出来るのを心待ちにするようになりました。プールの用地は、新潟校の向かいの塚田知事様に陳情いたしましたし、建設予算は、やはり学区にお住まいの渡邊市長様に陳情いたしました。この様子を聞いた私どもの料亭川善のお客様が、「新潟校は何でも学区の中で事が済んで、よいのう。」と笑っておられたのを覚えております。
  県知事様・市長様のお力添えもあり、ついに三校プールが作られることになりました。そして、起工式が41年7月に行われたのでございます。本当にここに至るまでのPTAの方々や地域の方々、校長先生のご労苦は大変だったのでございます。昭和41年8月5日、竣工式を待たずに、新潟校の子供たちがプールに入ったのでございました。子どもの大きな声がプールに響きました。正式のプール開きは8月16日でございました。
  このころの料亭川善は、夫の治助が亡くなった跡を長男の徹人が仕切り、評判を落とすことなく、お客様に親しまれておりました。二男の貫二は、相変わらず東京で芝居関係の仕事をしておりましたが、このころ一般の家で普通に見られるようになったテレビの放送局に出入りし、そちらの仕事の方が忙しいと申しておりました。上越線の新清水トンネルが開通したのも、このころでございました。新潟の風情を楽しもうという東京のお客様もいて、東京に支店を出す話も持ち込まれていたようでございますが、徹人は興味を示さなかったようでございます。
  ところで、新潟小学校が「たんぽぽ学校」と呼ばれているのは、ご存じでしたか。
  それでは、たんぽぽ学校のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十四話  たんぽぽ学校でございます


  今日は「たんぽぽ学校」のお話をいたしましょうか。新潟小学校は、たんぽぽ学校と呼ばれておりましたし、現在新潟校の先生方がお持ちになっている名刺にも、「たんぽぽ学校
  新潟小学校」と書かれております。
  たんぽぽ学校の始まりは、昭和三十七年ころ、遠藤稔校長先生の時代でございました。新任の用務員・福田栄松様が、新潟校に異動してこられたのでございます。福田様は、それはそれは植物がお好きな方で、当時4株しか植えられていなかったたんぽぽを、あちこちから見つけてこられて植えていったのでございます。福田様は、まず学校の正面に植えていきました。それが終わると、東側に株を増やし始めました。時分のころになりますと、新潟校の周りには黄色い帯が描かれたようでございました。それをご覧になった地域の皆様方が誰言うとなく「たんぽぽ学校」と言い始めたのでございます。
  たんぽぽは、踏まれても踏まれても空に向かって顔を上げる花でございます。花や茎の長さの何倍もの長さの根をもつ花でございます。決して華やかではなく、そこに咲き続ける花でございます。新潟校の教職員の方々は、たんぽぽの花のような子どもたちを育てたかったのでございましょう。
  お婆も、たんぽぽの花が大層好きでございました。
  それからしばらくして、関本慎吾様が校長であったころでございましょうか。昭和56年に「たんぽぽ学校碑」が創られるのでございます。これは、当時図工の先生でございました山本禎子先生がデザインしたもので、実際に制作を担当したのは、教頭の齊藤俊夫様と用務員の永原竹松様、篠田一義様でございました。まっ白いその碑が完成したのは、12月19日のことでございます。新潟校に冬の日差しが長くのびるころでございました。
  新潟校といえば、たんぽぽ学校のほかに、万代太鼓が有名でございます。
  それでは、万代太鼓のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十五話 少年万代太鼓でございます


  今日は万代太鼓のお話をいたしましょうか。新潟校に万代太鼓の音が響いたのは、昭和46年、渡部忠一校長先生の時代でございましたか。5月29日に、初めて万代太鼓の練習が始まったのでございます。それから、練習の日々が続きました。何せ生徒さんも担当する先生方も初めてのことで、戸惑いながらの練習でございました。それでも、何とか練習を続けられましたのは、万代太鼓の飛龍会の皆さんの温かい指導があったからでございます。そして、段々と形ができていったのでございます。
  新潟校の万代太鼓が初めてお披露目されたのは、昭和46年8月6日の「山鉾」披露行列でございました。それはそれは凛々しい生徒さんが打ち鳴らす太鼓の音が、新潟の街に響き渡ったのでございます。そして、いよいよ万代太鼓の本番、新潟祭りがやってまいります。8月21日の前夜祭や本祭りの行列で万代太鼓の生徒さん40名と鼓笛隊の生徒さん98名、子供みこしの150名、合計して288名が参加したのでございます。この年から、新潟校の万代太鼓は、新潟の街の風物詩として、祭りには無くてはならないものとなるのでございます。
  新しく万代太鼓の音が加わったのに対して、このころ消えていった音もございます。それが、チャイムの音でございます。昭和45年のことでございます。新潟校は他校に先駆けてチャイムを無くしたのでございます。これが今は多くの学校で取り入れられている「ノーチャイム」でございます。1年生か6年生まで、子どもたちは自分で時計を見て行動することになったのでございます。これは大変なことでございました。先生方も保護者の皆さまも、どうなることやらと心配しておりましたが、やってみれば何のことはない。とてもうまくいったのでございます。そして、きちんと授業時間が45分とれるようになったのでございます。そういえば、今も校歴室に、当時の渡部忠一校長先生が書かれた「この一刻が未来を決定する」石板がございます。まさに、チャイムを無くして自分で時間を支配するという考えを示したものでございましょうか。
  それにしても、時間というものは不思議なものでございます。多くのことどもを自然のうちに忘れさせてくれるものでございます。しかし、新潟校には、決して忘れてはならないこともございます。横田めぐみさんのことでございます。
  それでは、横田めぐみさんについて、とりとめのないお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)

第八十六話 51年度は何事もなく過ぎたのでございます


  昭和51年度は何事もない平和な年でございました。9月2日に先生方の野球大会が開かれ、浜浦校に、何と三十対四で快勝したのでございます。とにかくのどかな年でございました。
  そんなわけで、3月23日の卒業式には、6年生121名が馬場校長先生から卒業証書を手渡され、中学校に旅立っていったのでございました。その中に、一人の女の子がおりました。横田めぐみさんでございます。
  卒業生のほとんどは寄居中学校へ進みました。もちろんめぐみさんもでございます。
  それは昭和52年11月15日でございました。この日、新潟校では無事赤ちゃんをお産みになった内山先生が出勤されたので、講師として勤めていた柳川先生の離任式が開かれておりました。事件が起きたのは夕方のことでございます。寄居中学校のバトミントン部の練習を終えて帰ってくるはずの1年生の横田めぐみさんが、その日に限って帰ってこなかったのでございます。ご家族は手を尽くして、いろいろな場所を探したのでございますが、まったく手がかりがなかったのでございますよ。ずっと後になって分かったことでございますが、めぐみさんは北朝鮮の工作員に拉致され、船の中に連れ込まれたのでございました。真っ暗な船倉で叫びながら、40時間も船に揺られ、北朝鮮に着いたときには、出口や壁などを引っ掻いて剥がれた爪から血が流れていたと申します。本当にひどいことでございます。
  北朝鮮に拉致されたことが分かると、新潟校の校長であった馬場吉衛先生が中心になり、全国に呼び掛けて、めぐみさんを救出する運動を始めたのでございます。新潟校の先生方やめぐみさんの同級生の保護者の方など、多くの方々が参加されました。
  お婆は祈ります。めぐみさんが一刻も早くお父様やお母様のもとに帰ってくるのを。新潟校でも、毎年11月の全校朝会で校長先生が、めぐみさんが拉致された話をして、全員でめぐみさんが日本に帰ることができるよう祈るのだとお聞きしております。
  新潟校の大きな事件と言えば、もう一つ、統合の問題がございました。
  それでは、学校統合のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十六話 昭和51年度は何事もなく過ぎたのでございます


  昭和51年度は何事もない平和な年でございました。9月2日に先生方の野球大会が開かれ、浜浦校に、何と三十対四で快勝したのでございます。とにかくのどかな年でございました。
  そんなわけで、3月23日の卒業式には、6年生121名が馬場校長先生から卒業証書を手渡され、中学校に旅立っていったのでございました。その中に、一人の女の子がおりました。横田めぐみさんでございます。
  卒業生のほとんどは寄居中学校へ進みました。もちろんめぐみさんもでございます。
  それは昭和52年11月15日でございました。この日、新潟校では無事赤ちゃんをお産みになった内山先生が出勤されたので、講師として勤めていた柳川先生の離任式が開かれておりました。事件が起きたのは夕方のことでございます。寄居中学校のバトミントン部の練習を終えて帰ってくるはずの1年生の横田めぐみさんが、その日に限って帰ってこなかったのでございます。ご家族は手を尽くして、いろいろな場所を探したのでございますが、まったく手がかりがなかったのでございますよ。ずっと後になって分かったことでございますが、めぐみさんは北朝鮮の工作員に拉致され、船の中に連れ込まれたのでございました。真っ暗な船倉で叫びながら、40時間も船に揺られ、北朝鮮に着いたときには、出口や壁などを引っ掻いて剥がれた爪から血が流れていたと申します。本当にひどいことでございます。
  北朝鮮に拉致されたことが分かると、新潟校の校長であった馬場吉衛先生が中心になり、全国に呼び掛けて、めぐみさんを救出する運動を始めたのでございます。新潟校の先生方やめぐみさんの同級生の保護者の方など、多くの方々が参加されました。
  お婆は祈ります。めぐみさんが一刻も早くお父様やお母様のもとに帰ってくるのを。新潟校でも、毎年11月の全校朝会で校長先生が、めぐみさんが拉致された話をして、全員でめぐみさんが日本に帰ることができるよう祈るのだとお聞きしております。
  新潟校の大きな事件と言えば、もう一つ、統合の問題がございました。
  それでは、学校統合のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十七話 統合でございます


  それでは、学校統合の話をいたしましょうか。新潟校は十年の間に二つの学校統合をするのでございます。
  一つは大畑校との統合でございます。大畑校は新潟校と同じ明治6年3月2日に創立した学校でございます。新潟校が高等科新潟小学校となったとき、大畑校は尋常科新潟小学校になるなど、兄弟のような学校でございました。しかし、いざ統合が議論され始めると、自分たちの学校が無くなることに承服できず、様々な反対運動が起きたと申します。真偽のほどは量りかねますが、大畑校区に住んでいた芸者さんたちがお座敷に来られた偉い方々に統合反対のビラを配ったと噂になったりもいたしました。
  結局、校舎は新潟校を使う。校旗と校歌は新しく作る。名前は新潟小学校にするということになり、平成元年に統合が実現するのでございます。それにいたしましても、このとき新潟校の校長であった塚野巳三郎様は、大畑校の松沢博様と共に、子どもたちにとってどのような統合が良いのかを事細かにお考えになるなど、大層なお骨折りをなさったとお聞きしております。
  もう一つは礎校との統合でございます。礎校は明治34年に創立した学校でございます。こちらの方は大畑校との統合の後で、礎地区の多くの方々が豊照校との統合よりも新潟校との統合を望んでいたということもあり、混乱なく統合が決まったとお聞きしております。時の校長先生は、新潟校が山田穣様、礎校が野俣正樹様でございました。
  新潟校、大畑校、礎校の統合が進められたのは、ドーナツ化現象申すのですか、中心部分に人が住まなくなったからでございます。確かに、昔は住宅とお店が一緒であったものが、お店はそのままの場所で拡張し、そのかわり住居を小針など西の方に移す方々が増えたのでございます。このような傾向は今に至っても変わらないのでございます。
  難しいことは分かりかねますが、お婆が確信いたしますのは、今新潟小学校の校区に住んでいらっしゃる方々は、皆新潟の街が好きであり、新潟小学校が好きだということでございます。一度郊外にお宅を移した方でも、マンションができると、再びこの街に帰って来る方々もおられます。また、古町の自分のお店に御夫婦で勤めるため、お子さんを自分が卒業した新潟小学校にあげる方々もおられます。
  今日はどういうわけでございましょうか,大層疲れてまいりました。
  この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第八十八話  結びでございます


 私めは、新潟小学校の近くに住まいするお婆でございます。
 名前を,お吉と申します。お婆の来し方は,新潟小学校と,それを取り巻く人々と共にございました。さりながら,年をとるに従い,私めの周りから,一人また一人と櫛の歯が抜けるように人が消えていったのでございます。それは,さびしいものでございます。
 私めは,新潟小学校の語り部を勤めてまいった積もりでございます。ただ,最近では,そうではないと思うようになりました。それと申しますのも,お婆の周りから消えていった方々の思いが,お婆の口を借りて話をさせていたような気がするのでございます。
 お婆は思うのでございます。人から人へ伝えられたものだけが,歴史と言われ真実となる。それゆえ,出来事はていねいに責任をもって語らなければならないのでございます。
 また,お婆は,こうも思います。人は若いときには,精一杯働かなければなりません。そして,働けなくなったら,語り部にならなければならないのでございます。
 かつて,すべての家に語り部がおりました。その家の歴史,その家を取り巻く大いなる自然と豊かな人との交わりの中から語られる言葉は,心地よく子供たちを育んでまいったのでございます。そうでございますよ。子供たちを育てるのは,大人たちの言葉なのでございます。
 よき言葉,人の生き方を応援する言葉,自然の力に支えられた言葉は,よき子供を育て,明るい未来への道を指し示します。邪悪な言葉,人を誹る言葉,自然の力に逆らう言葉は,子供たちを傷つけ,迷い道を指し示します。
 言葉とは,皆そのようなものでございます。
 それにいたしましても,今日は,詮無きことばかり申し上げてしまいますね。
 どうしたのもでございましょうか。
 それにいたしましても,お婆は,大層眠くなってまいりました。
 疲れたのでございましょうか。
 疲れたのでございましょうね。
 そのようなわけで,お婆のお話は,このあたりで,本当に結びとさせていただきとうございます。ありがとうございました。 (完)