おばあの語り3
おばあの語り21話〜33話
第二十一話 文部省から褒美が与えられたのでございます
明治16年のことでございました。新潟町校が文部省から褒美を与えられたのでございます。
当時、新潟町校は本校・分校合わせて教員100人、生徒3000名でございましたが、新潟町校の先生方の教え方の研究は、先に文部省のお役人様や東京師範の先生に直接教えを乞うたり、わざわざ東京まで、勉強にいったりするなど、大したものでございました。父などは、「師たるもの、こうあるべきだ」などど言っておりましたが、そこで行われる教育も評判になっていたようでございます。
文部省からの通知が参ったのは、校庭の葉も散り始めるころでございました。なんでも、県のお役人が直々に知らせにお出でになったのでございます。それによりますと、全国学校部門で、なんと新潟町校が1等賞だというではありませんか。本当にびっくりいたしました。褒美の品は、理科の標本1組、康煕(こうき)字典1部、製図用具1組などでございました。父親に聞いても、よく分らないものばかりでございましたが、ただ一つ康煕字典については、何でも、中国の清の4代皇帝、康煕帝(こうきてい)という皇帝が学者に命じて編纂させた漢字辞典で、父が村松藩の藩校で同様のものを手に取ったことがあるという由緒あるものでございました。
先生方では、お二人が全国で5等賞になりました。一人は、本校の北村訓導様でございます。この方の母上は、10年前新潟校ができたころ、女子先生だった方でござます。もう、一人は西堀校の板井訓導様でございました。それぞれ、硯箱などが与えられました。
生徒の表彰は、1等賞が新潟本校の村田みいという生徒で、2等賞は、西堀校、豊照校、蔵所校の生徒3名、3等賞は西堀校、洲崎校の生徒2名で、「論語」などの難しいご本を与えられたと聞いております。
褒美の品がいつ来るのか、いつ来るのかと先生方も首を長くして待っていたようでございますが、実際に届いたのは、次の年の3月でございました。
表彰された生徒さんたちは、それはそれは晴れがましく見えましたし、ますます勉学に励んだと申します。
さて、その生徒さんを教えた新潟校の先生方でございますが、優秀な方が多く、さまざまなところから引き合いがあったといいます。
それでは、先生方について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十二話 ご活躍をお祈りしたものでございます
今日は、先生方のお話でございましたね。
新潟校の先生方は以前もお話いたしましたように、大層勉学に励まれておられました。そうして、県内の学校へ新しい教育を教えるため、移っていきなさった方も多くいたと伺っております。
その中で、学校以外の所で活躍された方々の話を、父から伺ってことがあります。
一人は小池新三郎先生でございます。この方は、新潟校で先生を勤めた後、新潟師範学校に入るような勉強家でございまして、県会議員になった方でございます。何十年も議員を勤め、政友会の院内総務の職につくなど、議会運営の駆け引きに優れていた方だと父も申しておりました。そういえば、大変弁の立つ方で、新潟校でもほかの先生方が、何かにつけ言い負かされていたようでございました。
もう一人は、堀小太郎先生でございます。この方は、新潟校で校長のような仕事をしておられましたが、その後、裁判官になった方で、県内の裁判所で活躍されておられました。なんでも、新潟校が創立したものの、校内の規則や仕組などがあまり整っていなかったものを、制度や事務を一人で取り仕切り、整然と仕事ができるようにされた方でございます。
最後は、鈴木荘六先生でございます。この方は、新潟校の教員の時に陸軍士官学校を受験したのですが、不合格となったのでございます。しかし、軍人の夢をあきらめず、その後学校の先生を辞めて陸軍に入り、陸軍大学卒業後、参謀総長、陸軍大臣にまでなられ、「陸軍の名将軍」とうたわれた方ございます。なんでも、新潟校の教員時代、高等科を受けもっておられた時、漢文が苦手で、授業中でも分からないことがあると、すぐ校長先生の所へとんで行って教えてもらってから、授業を続けたという有名な話が残っております。
お婆は、先生方が新潟校を離れるとき、いつも手を合わせてご活躍をお祈りしたものでございます。
さて、このころ、新潟の交通も大きく変わるのでございます。
それでは、橋と川蒸気について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十三話 万代橋の下を川蒸気が走ったのでございます
今日は、新潟の交通の話をいたしましょうか。
新潟の交通は、なんと言っても川と堀でございます。
商家の裏には必ず堀があり、そこに舟着場がございました。そこから舟にのれば、大川、信濃川のことでございますが、大川を通って長岡や与板にまで荷物を運べましたし、大川から大きな船に荷を積み替えれば、海を越えて蝦夷や瀬戸内にまで、荷物を運ぶことができたのでございます。
明治7年になると、横浜で造られた「魁丸(さきがけまる)」という川蒸気が、新潟と長岡の間を行き来するようになりました。それまで、長岡まで4、5日かかっていたのが、半日で行けるようになったのでございます。蒸気の力はたいしたものでございました。運賃は大層高かったのでございますが、乗る人は引きも切らなかったのでございます。川蒸気といっても、今の方々にはお分かりいただけませんでしょうね。汽車を岡蒸気と申したのに対して、蒸気船を川蒸気と呼んだのでございます。
その後、新潟川汽船会社と安全社、彙新社(いしんしゃ)の三つの川蒸気の会社が、手ぬぐいや下駄などの景品を付けて、客を争ったのでございます。お婆も父が商売に行くのに、長岡まで連れていってもらったことがございました。とても速く、川の風が気持ちよかったのを覚えております。
大川は、大切な交通路ではありましたが、同時に新潟と沼垂を分ける厄介なものでもあったのでございます。
そこで、新潟日々新聞の内山様と国立第四銀行の八木様が、大川に橋をかけることになりました。半年かけて、大勢の大工さんたちが木を組んで、橋をかけたのでございますが、長さが782メートル幅が6.4メートルと、今までに見たこともない大きな橋でございました。たしか、そのころは、萬代橋(よろずよばし)と呼ばれたのでございます。
そういえば、この橋を渡るためには、橋銭というお金を払わなければならなかったのでございます。たしか、1銭5厘であったと思います。
こんなわけで、万代橋の下を川蒸気が走ったのでございます。これで、祖母の実家の沼垂へは、すぐに行けるようになり、人々の動きも大きく変わりました。
変わったと言えば、新潟校もこのころ大きく変わることになるのでございます。
それでは、新しい新潟校について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十四話 高等科新潟小学校の誕生でございます
明治18年、小学校は、高等科、中等科、初等科の3種類に分けられました。新潟校は、新潟区でただ一つの高等科小学校となったのでございます。
さらに、次の年、小学校令という法令が出され、3種類の小学校が尋常小学校と高等小学校の2種類になったのでございます。
明治20年、新潟校は、そのまま高等科新潟小学校となりました。尋常科小学校になったのは、鏡淵校、大畑校、豊照校でございました。蔵所校と洲崎校は、この時になくなり、近所の方々が残念がっておりました。これより以後は、鏡淵・大畑・豊照の三つの尋常科小学校を卒業した生徒が高等科新潟小学校へ進むようになったのでございます。
ただ、お婆が聞いても、分かりにくかったのは、新潟校を高等科新潟小学校、大畑校を尋常科新潟小学校と呼んだことでございます。さらに、豊照校の脇に簡易科新潟小学校という学校もできたのでございます。簡易科小学校は、尋常科小学校よりも授業時間が短く、一日3時間以内と決められておりました。
こんなわけで、三つの新潟小学校ができたのでございます。
皆様方は、「高等科」「尋常科」「簡易科」といって区別していらっしゃたようでございますが、なんとも分かりにくいことでございました。
父は、「新しいものを創っていくのは、こんなふうに紆余曲折して、ようやく制度として固まるものだ。」と言っておりましたが、祖父は、「まったく、新政府のやることは、分かりませんよ。」と嘆いておりました。母は、ただ笑っていたようでございます。
明治15年の学校 | 明治18年の学校 | 明治20年の学校 | ||
新潟町校本校(新潟校) | ⇒ | 高等科新潟小学校 | ⇒ | 高等科新潟小学校(新潟校) |
第1分校鏡淵校 | ⇒ | 初等科蔵所小学校 | ⇒ | 消滅 |
⇒ | 中等科鏡淵小学校 | ⇒ | 尋常科新潟小学校第一分教場 | |
第2分校西堀校(大畑校) | ⇒ | 中等科西堀小学校 | ⇒ | 尋常科新潟小学校(大畑校) |
第3分校洲崎校 | ⇒ | 初等科洲崎小学校 | ⇒ | 消滅 |
第4分校豊照校 | ⇒ | 中等科豊照小学校 | ⇒ | 尋常科新潟小学校第二分教場 |
高等科新潟小学校の場所でございますが、西堀校の校舎を使うことになっておりました。
それが、大変なことになったのでございますよ。
それでは、西堀校の校舎について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十五話 西堀校が全焼してしまったのでございます
高等科新潟小学校に使うはずの西堀校の校舎のことをお話いたしましょうか。
明治19年5月15日の午後4時ころに、西堀5番町の善道寺様の本堂から火がでたのでございます。その火が西堀小学校に燃え移ってしまいました。当日、先生方は全員、教え方の講習会のため、高等科新潟小学校に出張しておりました。火はまたたくまに広がり、先生方が駆けつけ、懸命の消火に努めたのでございましたが、ついに明治13年に新築したばかりの校舎が全焼してしまったのでございます。しかし、先生方の働きで書類やあまたの機械類は運び出したということでございます。類焼は、不動院様ほか町屋30軒に及び、火は午後6時ころ鎮まったのでございます。
気になるのは、その後の授業のとことでございます。まず、学校の教務室を西堀通3番町にある鏡淵小学校に移しました。生徒さんは、すべて、高等科新潟小と尋常科鏡淵小、豊照小へ転校となったのでございます。その内訳は、177名が高等科新潟小学校、397名が鏡淵小学校、17名が豊照小学校でございました。先生方も付き添って、それぞれの学校で授業を行ったのでございます。
西堀小学校に大きな変化があったように、このころお婆の身の上にも大きな変化が訪れておりました。縁談でございます。なんでも、祖父のお友達で料亭を営んでいる家へ嫁ぐ話があったのでございます。お婆は、19になっておりましたが、父の仕事の手伝いをするのを楽しみとしておりました。この家が商っているお茶が、遠く海を越えてアメリカまで行き、アメリカ人の食卓に上ることを考えると、何か自分も世界につながっているように思えたからでございます。
ただ、お婆の思いとは別に、当時19と言えば遅い方でございましたので、縁談は流れるように進んでいきました。
結局、祝言の日どりは、次の年の六月と決まりました。
その日の晩は、どうにもこうにも、涙が止まらなかったことを覚えております。ただ、お婆は、子供のころから慣れ親しんだ新潟小学校が好きでございましたので、嫁いでも、新潟小学校のそばに住んでいられるので、何か心が少しだけ安らかでございました。変でございますよね。
お婆が嫁ぐ年、高等科新潟小学校の新築工事がはじまったのでございます。
新潟校の新しい場所についお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十六話 東大畑通1番町に学校が建ったのでございます
今日は、高等科新潟小学校が建てられた場所について、お話いたしましょうか。
はじめは、西堀5番町の西堀小学校の校舎を使うことになっていたのでございますが、その校舎が火事になってしまいました。そこで、火事場を整地して、新しく校舎を建てることが決まり、それまでの間は、西堀9番町の旧新潟町校の校舎を借りることになったのでございます。そのため、本来新潟町校の校舎を使うはずの尋常科新潟小学校は、玉突きのように、西堀通3番町の鏡淵校の校舎を借り、鏡淵校は蔵所校の校舎を借りたのでございます。
そのようにして、高等科新潟小学校が仮開学しておりましたが、新校舎建設予定の場所が、たいそう人家が密集しているということで、学校の場所としては好ましくないということになり、場所換えになりました。新しく決まったのが、東大畑通1番町。今、新潟小学校がある場所でございます。この土地は、鈴木長蔵様の持ち物で、958坪ほどございましたが、それを2,695円ほどで購入したということでございます。
早速、新しい校舎の工事が明治20年の10月に始まりました。それが、まあなんとしたことでしょう。12月の暴風雨で建築半ばにして、倒れてしまったのでございます。それは、ひどい有り様でした。13人もの方々が負傷され、内6人が手足などを折る重傷でございました。幸いでしたのは、死人が一人もいなかったことでございます。
この時、学校は生徒に義捐金を呼びかけ、生徒たちは、筆・墨を節約してこれに応じたと申します。お婆の弟も、この学校に上がっておりましたので、なにがしかの金子(きんす)を拠出したのでございます。義捐金は全部で28円ほど集まり、それぞれ負傷者に渡されたのでございます。あとで、これをお聞きになった県令様がいたく感心なされ、1円より多くの義捐金を出した皆様に賞状をくだされたのでございます。
結局、新校舎が完成し、すべてが新校舎へ移ったのは、明治21年8月1日でございました。
ところで、このころ、学校で三大節という儀式を行う日が決まったのでございます。
それでは、三大節のことについて、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十七話 紀元節、天長節、元日の三つの儀式でございます
今日は三大節のお話をいたしましょうか。
三大節というのは、紀元節、天長節、元日の三つの儀式でございます。紀元節は国の始まりを天長節は天皇の誕生日を、元日は新年をお祝いするのでございました。たしか、明治の20年ころから始まったと覚えております。この日は、先生も生徒も学校へ来て、それはそれは厳めしい儀式をとり行うのでございます。
天長節の様子は、次のようでございました。
まず、生徒さんと先生方、市の役人様が、整列いたします。その後、全員起立し、開式の言葉の後、校長先生が天皇陛下のお写真の扉を開けるのでございます。すると、「最敬礼」という号令がかかり、それに合わせて、全員が腰を直角くらいに深く曲げてお辞儀をします。その後、「君が代」を歌いました。それが終わると、校長先生が「教育勅語」を読まれます。「朕惟うに、我が皇祖皇宗国を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり…」という難しいものでございましたが、先生も生徒さんもみなさん、全部覚えていたようでございます。そのあと、校長先生のお話があり、全員で天長節の唱歌を歌います。
そのあと、もう一回「最敬礼」の号令がかかり、全員でお辞儀をします。そして、校長先生が天皇陛下のお写真の扉を閉めて、すべてが終わるのでございます。
その時の校長先生の服装は、フロックコートかモーニングで白い手袋をはめておりました。男の先生方はフロックコートか羽織・はかまをつけておりましたし、女の先生方は白えりの紋付の和服でございました。ただ、女の先生方の髪型は、結婚されている方は丸まげにし、独身の方は島田まげにするよう決められていたようでございます。
生徒さんの服装はというと、男の子は筒袖の黒紋付の羽織とはかまでございましたし、女の子は紫か海老茶のはかまで、髪はいちょう返しの前垂れ髪でございました。本当にきゅうくつであったようでございます。
そうそう校長先生がフロックコートを着ていたというのを聞いて、祖父は「日本人は、着物をきなくちゃいかんのに、あの校長の格好は何だ。」などど腹を立てていたものでございます。
このような三つの儀式は、高等科、尋常科にかかわらず行われたものでございます。
それは、そうと尋常科でどんな勉強が行われたかご存知ですか。
れでは、尋常科の勉強について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十八話 尋常科は1年から4年まででございます
尋常科新潟小学校、後の大畑小学校でございますが、そこで、明治19年ころ、生徒さんたちがどのような勉強をしていたかお話いたしましょうか。
尋常科は1年から4年まででございますが、まず、修身という勉強がございました。これは、人の道を教えるものとされておりました。
次に読書でござます。1年は、仮名書きのもの、それ以上は漢字が交ったものを使いました。
作文や習字もございました。習字は、1年がカタカナ、ひらがな、簡単な漢字交じりの短い言葉を書きました。2年生は日ごろの生活で使う文字を書きました。3、4年生になると、日用書類といって大人が使うような文章を書いておりました。
算術は筆算と珠算の計算が主でございましたが、1年は20までの数、2年は100までの数、3年は1000までの数、4年は1万までの数と決められておりました。
体操もございました。1年はお遊戯でございました。2年と3年は遊戯の他にも普通体操が入ってまいります。4年は、普通体操をやりますが、男の生徒さんだけは、兵隊さんの体操をやったようでございます。このほか、唱歌や図画もありました。唱歌では、「蝶々蝶々菜の葉にとまれ」や「開いた開いた何の花が開いた」という歌がよく学校から聞こえてきたものでざいました。
なお、唱歌の教え方は、尋常科豊照小学校が一番進んでいると言われており、その他の学校の先生方が、豊照校へ習いにいったものでございます。
こんなふうに学校の勉強は、だんだん形が整っていったのでございますが、祖父の康太郎は「寺子屋の方が数段いい」と、学校の教育に不満を漏らしておりました。
祖父が申しますのには、寺子屋の勉強は、読み・書き・そろばんの3教科のみで、自学自習という勉強方法であったといいます。そして、師匠が個別に教えてくれたので、その子にあった速さで勉強が進み、自分で勉強する癖もついたと申します。さらに、師匠の言うことを聞かぬと破門、になり、そうなると両親が近所の「あやまり婆さん」を頼んで、寺子屋へ一緒に行って謝ってもらい、ようやく破門が解けたそうでございます。
それはそうと、このころ大きな政治向きの変化があり、新潟が市になったのでございます。
それでは、市になった新潟についてとりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第二十九話 新潟市の誕生でございます
明治22年、新潟は関屋を合併し、4万3千人の市になりました。新潟市の誕生でございます。
初代の市長様でございますが、その決め方は、今のような選挙ではございません。市の議会で3人程度推薦した中から、内務大臣様が一人に絞り、それを天皇陛下が任命するのでございます。結局、任命されたのは、小倉幸光様という元の北蒲原郡長様で、御維新の前は、大垣藩のお侍でございました。その下に助役様がおりましたが、市役所のお役人は、全部で34人しかいなかったのでございます。組織も三つの課しかなく、学校などの教育は、第1課が取り扱うことになっていたようでございます。
私の連れ合いに、市役所のお役人様の友達がおりました。その方のお話によると、市役所の仕事で多いのは、戸籍の事務と税金の事務、兵隊さんの事務の三つだったそうでございます。また、市役所の予算の中に、「点灯費」という項目があり、それが、新潟の街を明るくする石油の街灯の燃料費だと聞いて、その多さに驚いたものでございます。
同じころ、全国的に、昔の小さな村が合併し、大きな村ができたのでございます。学校を作ったり、土木工事をしたりするためには、ある程度の大きな村と予算が必要だったのでございます。面白いのは、村の名前の決め方でございます。みなさん、自分の村の名前をそのまま付けたいと考えていて、なかなか一つに決まらず、結局、昔の村の名前の一字ずつをとった名前が発明されたのでございます。たとえば、曽川村、天野新田、嘉木村から、それぞれ一字ずつとって、曽野木村と決まりまったのでございます。
それと申しますのも、曽川村から三人ほど、奉公人がお婆の嫁いだ料亭川善にあがっていたのでございます。川善は、新潟町の商人やら近くの地主の方々がよく集まる場所でございました。戊辰戦争の前には、会津のお侍方が顔を出しておりましたし、戦争後は、洋服を着た長州や薩摩のお侍が通ってきたと申しておりました。明治の御代になってからは、自由民権運動の壮士の方々がお出でなさいました。
それはそうと、このころ新潟校の脇に堀があったのをご存知でしたか。
それでは、学校の脇の堀についてとりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第三十話 学校のそばは、堀でございました
明治の新潟は、堀の町でございました。ちょうど、学校と今の中央警察署との間に東大畑通堀という一筋の堀が流れておりました。東大畑通堀は、南浜堀を経て三番堀(新堀)に通じておりました。三番堀は、待宵橋,千歳橋,蓬莱橋,幸橋,厩橋と経て他門川に合流し、さらに信濃川に続いていたのでございます。したがって、学校の前から、船で信濃川まで荷物が運べたのでございますよ。
また、三番堀と平行して、合計五つの堀がございました。まず、上から白山神社の前に一番堀、新津屋小路の場所に二番堀、広小路の場所に四番掘、一番下が五番堀でございます。これら信濃川と直角に流れる堀と、西堀、東堀、他門川など、信濃川に平行に流れる堀が交差し、明治の新潟町の流通を支えたのでございます。
お婆が今でも、美しいと思いましたのは、その堀にかかる橋でございました。たとえば、二番掘と東堀が交差する堀の十字路には、四つ橋という四本の橋が、上から見ると真四角のようにかけられておりました。それらの橋には、桜橋、若葉橋、紅葉橋、深雪橋という四季の名前が付けられ、祭りのときは、その四つ橋をめぐって踊ったのでございます。
また、新潟校グラウンドの裏手に異人池に通じる南大畑堀がございました。異人池から湧き出る清水が源流でございますので、とても冷たかったように思います。異人池は、カトリック教会のそばに湧き出したため、異人さんの池という意味で、異人池と名づけられました。教会の神父様たちは、水辺にクレソンを植えたり、池のほとりには、グーズベリやクローバーなどを植えました。
池の中には、イトヨやモリアオガエル、ヘイケボタルなどたくさんの生き物が暮らしておりました。
時たま、異人さんたちがボートを浮かべていた光景が、異国のようだったことを覚えております。
異人池の水が湧き出る清水であったということことからも分かるように、このあたりは井戸を掘ると、すぐにきれいな水がでたものでございますよ。父の知り合いの人でございましたが、井戸水から水道を引いて、新潟の街の人たちに売る仕事をしようとしたのでございますよ。
それでは、新潟の井戸水道の話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第三十一話 井戸を掘り、水道をつくったのでございます
明治の初め、新潟の多くの人々は堀の水を使って、米を研いだり、野菜を洗っておりました。共同の井戸もありましたが、一部の地域以外は鉄分の多い飲むことのできない水でした。
そこで、人々は信濃川から、1週間分の飲料水を汲み、それを家々の水ガメにためでおいたともうします。また、舟で信濃川の真ん中の水を汲んで、家々に売り歩く、水屋という商売もございました。
そのうちに、水道をひこうと考える人々が出てまいりました。新潟で初めて水道を引いたのは、父と同じ村松藩のお侍で、吉川様という方でございました。水道を引く前には、よく父の所へ相談に来ていたようでございます。祖父の康太郎が、いろいろな方々をご紹介していたようでございますが。
吉川様は父と祖父の協力もあってか、下旭町の砂丘の麓の水源から西堀通まで樋管をひき、飲み水を街の人々に供給したのでございます。ただ、この水道は、木で作られておりましたが、家々までひかれているのではなく、水道の最後に水をためておく場所を設けて、人々が、そこにくみにいったのでございます。それまでの、信濃川から舟で組み上げた水にくらべると、水質のよい、清潔な水だったと申します。
さらに、吉川様は、水道を引くことができない地域の方々のために、寄居のカトリック教会のそばの砂取場から湧き出た水を、舟を使って売り歩いたと申します。父が言っていたことでありますが、その水は、異人池が生まれたときの井戸の水だったそうでございます。そうであれば、吉川様は、異人池の井戸から湧き出た水をくみ上げ、南大畑通堀と東大畑通堀を使い、新潟の町にはりめぐらされた堀をうまく使いながら、水の販売をしていたことになります。
父の雅之介は、「吉川こそ、新潟の水道の父である。」と申しておりました。ただ、水道は新潟の町にとってとても大切な事業でありました。そのため、明治23年に出された水道条例によって、水道はお上の仕事となってしまったようでございます。
それはそうと、このころ大畑という文字が初めて、学校の名前についたのでございます。
それでは、大畑校についてとりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第三十二話 大畑が初めて学校の名前になったのでございます
明治25年、それまでの高等科新潟小学校が新潟市立新潟高等小学校に、尋常科新潟小学校が新潟市立西堀尋常小学校と名前を変えるのでございます。そして、西堀尋常小学校は、明治33年に、校舎を東大畑通2番町に新築したのでございます。木造2階建てで、校舎の面積は397坪でございました。工事のために、当時のお金で1万1千795円かかったと申します。このとき、建てられた校舎が昭和の33年まで60年以上に渡って使われ続けたのでございます。
学校の名前も、校舎の新築を機に、西堀尋常小学校から大畑尋常小学校と変わりました。大畑という名前が初めて学校の名前になったのでございます。
驚くのは、この大畑尋常小学校、大畑校の学区でございますよ。何と、広い時は、古町・本町・東堀・西堀のそれぞれ4番町から11番町までと、東大畑、寄居、西大畑、田中町、南浜、旭町、東中通、上大川前が学区だったのでございます。まさに新潟の中心地がすっぽりと入ってしまうのでございます。そうすると、新潟校の学区はどこだったか疑問をもたれる方もお出でかと思いますが、新潟校は高等小学校だったため、新潟市全体が学区でございました。鏡淵校、大畑校、豊照校など、すべての尋常小学校の卒業生が、新潟校に入学したのでございます。
大畑校と名前が変わった明治33年という年は、日本全体の教育が大きく変わった年でもありました。まず、尋常小学校4年間を義務教育とすると全国的に定められたのでございます。また、それまで月謝というものを納めておりましたが、この年から無料になりました。
さらに、読書、作文、習字に分かれていたものをまとめて、国語という新しい教科ができましたし、授業時間数も、尋常科は2時間減らし週28時間、高等科は6時間減らし30時間と決められたのでございます。
父の雅之介は、学校の月謝を廃止したことにいたく感心し、「これは、義務教育を国中にあまねく広めようとする明治政府の並々ならぬ決意であり、日本の新しい国づくりのためには、もっともなことだ。」としきりに、町内の寄り合いで演説していたとのことでございます。これを聞いた母の文は、父の壮士ぐせが高ずることを心配していたようでございますし、祖父の康太郎も婿が政治向きのことに関心を示すのを嫌っていたようでございます。
それはそうと、このころ新潟校で校長先生方がよく集まっていたのでございます。
それでは、校長先生方の寄り合いについてとりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)
第三十三話 校長先生と訓導の先生が、1か月おきに新潟校に集まっておりました
今日は校長先生方の寄り合いのお話をいたしましょうか。校長先生と訓導の先生方が、1か月おきに新潟校に集まっておりました。なんでも、校長訓導協議会という難しい名前の会でございました。明治25年ころから始まったようで、土曜日に開かれるのが普通でございました。
ここで決まったことが、それぞれの学校で行われていたようでございます。たとえば、新潟市の学校全部の入学式と卒業式のやり方は、ここで決められ、みな同じことをするようになりました。また、劣等生の子供さんには家庭通知簿を作るとか、校舎内には上草履をはかせないようにするとか、小学校の入学から卒業まで一人の先生が担任するとか、いろいろ決まったのでございます。
そういえば、この会議で先生方の学術研究会を作ることも決まりました。これは、校長、訓導のほか一般の先生方も参加することができる研究会で、5のつく日の夜に新潟校に集まったのでございます。もちろん自分たちでお金を出して、講師先生を呼んでいろいろな教科の勉強をいたしました。。習字、図画の教科書は、どれが一番新潟市の生徒にあっているかとか、生徒に教える「礼法」はどのようなものがよいかなど、討論は深夜まで及んだと申します。
このような新潟市全体の研究会とは別に、新潟校では、先生方が校内で研究をしておりました。日曜日になると、学校に集まって心理学や論理学の勉強をしたり、国語や算術の教え方を討論したのでございます。
とにかく先生方は、一に勉強二に勉強でございます。そのような先生方に教えられる新潟校の生徒さんは本当に幸せでございました。
そんなことより、お婆にうれしいことがございました。女の子を授かったのでございます。法(のり)という名前をつけました。どうでもいいことでございますね。
それは、そうとうとこのころ新潟小学校三本目の柱である礎校が誕生したのでござます。
それでは、礎校についてとりとめのないお話をいたしましょうか。
お付き合いいただければの話でございますが。
さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。 (つづく)