おばあの語り6

おばあの語り56話〜62話

第五十六話 大典の行事が行われたのでございます


  今日は昭和3年に行われた御大典についてお話申しましょうか。大典とは、天皇陛下の即位の式と五穀豊穣を祈る儀式でございます。
  この年の11月10日に京都御所で行われる御大典の式に合わせて、全国の小学校でも同時にお祝いの式をしたのでございます。新潟校でも、午後2時30分から式が始まり、校長先生の訓話が20分以上あったといいます。生徒さんたちは、じーっと聞きいっており、誰ひとりとして話し声などをあげるものはございませんでした。時間が参りますと、京都で行っていた御式の会場で総理大臣様が万歳三唱をする午後3時ちょうどに、新潟校でも職員・生徒全員で万歳三唱をしたのでございます。
  万歳三唱はこれで終わったわけではございませんでした。御大典の式の3日後でございましたか、新潟市全部の小学校の尋常科3年以上の子供を新潟校の屋外運動場に集めて、集会を開いたのでございます。そこで国歌斉唱をした後、市長様の御発声でまたまた天皇陛下の御即位をお祝いする万歳三唱があったのでございます。それが終わりますと、全員が旗をもって御祝いの行列をいたしました。
  お婆は、昭和の時代は万歳三唱の時代であったように思えてならないのでございます。何かあると、万歳三唱がございました。その声が今も耳に残っております。うれしい万歳もございました。悲しい万歳もございました。心の内と顔がちぐはぐのときもございましたが、万歳をするときの表情の移ろいそのものが、昭和という時代そのものでございました。
  御大典にあわせて、全国の小学生が作った童謡の中から、奉献作品を選び、天皇陛下に献上する取組も行われました。新潟市からは新潟校と豊照校の子供が選ばれ、天皇陛下や宮様からご覧頂いたのでございます。新潟校4年の作品は、次のようなものでございました。
  「御大典だ御大典だ
  日本の国のすみずみまでも
  めでたい歌でいっぱいだ
  僕は日本の日本男児
  大きな声で元気よく
  日の丸の国旗打ち振って歌おうよ
  外国までも聞こえるように」
  そんなときでございました。長男の徹人に嫁をもらいました。玲でございます。本町の酒屋の娘でございました。静かでいながら、なかなかの気の強さでございました。料理やの女将を継ぐのでございますから、ちょうどいいのかもしれませんが。
  そういえば、このころでございました。新潟校の名前が変わるのでございます。
  それでは、新潟尋常小学校のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)    

第五十七話 新潟尋常小学校になったのでございます


  今日は新潟校の高等科が廃止されたお話をいたしましょうか。
  高等科ができたころ、新潟市内には新潟校にだけ高等科がございました。高等科の生徒さんたち全員が新潟校に通っていたのでございます。明治から大正へと時代が進むにつれ、高等科を希望する生徒さんが増えてきたと申します。大正には、二葉尋常高等小学校を新たに作るとともに、入舟尋常小学校を尋常高等小学校に格上げいたしました。それでも、希望者が増えたため、新潟尋常高等小学校の高等科の生徒さんの一部を礎校や豊照校に間借りさせて授業を続けたものでございました。
  大正の終わりころには、それぞれの学校の高等科の生徒さんを集めれば、ゆうに一つの学校ができるくらいになったのでございます。そこで、いっそのこと高等科だけの学校を作ろうということになりました。
  そして、昭和2年に、西新潟の高等科の生徒さんを全部二葉尋常高等小学校に集めました。このとき、新潟尋常高等小学校から、高等科がなくなり、名前も新潟尋常小学校になったのでございます。一方、二葉尋常高等小学校は、昭和3年に尋常科を廃止し二葉高等小学校になったのでございます。
  当時の学校の制度は大変複雑でございました。尋常小学校を卒業した後の身の振り方を見ると、少しはお分かりいただけるかもしれませんね。昭和2年、新潟市の尋常科卒業生約2000人のうち、高等科に入学した者約950人、中学校に入学した者約120人、商業学校に入学した者約120人、高等女学校に入学した者約230人、各種学校に入学した者約80人、家業を継いだ者約700人となっておりました。家業を継いだ者の中には、補習学校へ行った者も多かったようでございます。いろいろな道があったのでございますが、やはり高等科への入学が一番多かったのでございます。
  このころでございました。何を思ったのか、貫二が家出をしたのでございます。もともと、築地小劇場などの芝居に興味を持ち、古町の芝居小屋などに入り浸っていたのでございます。仕事にもつかず、といって店の手伝いもはんちくになり、父親といさかいをしたのがきっかけでございました。子供の愚痴話になって、申し訳ございません。
  それはそうと、このころ新潟小学校から、分かれて新しい学校ができたのを御存知でしょうか。
  それでは、白山尋常小学校のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十八話 分かれて白山尋常小学校ができたのでございます


  それでは、白山尋常小学校のお話をいたしましょうか。
  昭和の初めという時代は、大正の好景気の反動を受けて、全国的には不況の中にございました。さりながら、当県は、さまざまな交通が整備されるという時代に入っていったところでございました。たとえば、越後鉄道の国有化、万代橋の開通、中の口電機鉄道会社の設立、上越線の開通、佐渡汽船の成立などが、昭和の初めから大幅に拡張されていったのでございます。ちょうどこれと機を同じくするように、新潟の工業も発展してまいりました。そのためでございましょうか、新潟市の人口も増え、新潟校、鏡淵校、礎校、豊照校、湊校、入舟校の子供たちの数も増えてまいりました。新潟校の子供が、1500人を超えたと申します。
  そこで、まず豊照校と湊校と入舟校の子供を分けて栄校を作りました。高台にそびえる鉄筋コンクリート校舎でございました。新潟市では、二葉校に次ぐ二番目のコンクリート校舎の完成でございます。次に、新潟校、鏡淵校、礎校の学校の子供を分けて、白山校を作ることになったのでございます。しかし、問題は校舎でございました。木造とするか、コンクリート造りにするかで、意見が大きく分かれたと申します。新潟市の財政が難しいという理由だったとお聞きしております。結局は、ロマネスク風の見事な鉄筋コンクーリートの校舎になりました。
  お婆が特に感心いたしましたのは、厠(かわや)、厠と申しますのは、今のトイレでございますが、厠が水洗浄化式になったことでございます。これには、皆驚いたものでございます。今から約80年も前に、今と同じように水が出るのでございます。なんでも、皆珍しがって、用も足さずに水だけ流す者が多かったと聞いております。
  そうそうこのころ、ようやく行方知れずになっていた貫二から手紙が来たのでございます。なんとかという役者の弟子になったと書いてありましたが、住所が書いておらず、気をもんだのを覚えております。
  白山校ができたころでございましたか、竹内式部様の遺骨を受け取りに三宅島までお出でになったということがございました。何のことかお分かりいただけないと思います。
  それでは、竹内式部のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第五十九話 竹内式部の遺骨を受け取りにいったのでございます


  それでは、竹内式部のお話をいたしましょうか。竹内式部と申すのは、江戸時代の新潟市出身の神学者でございます。京都の大徳寺家につかえて、公家衆45家を門人に持つとともに、一般の門人も800人を数えたと申します。勤皇の志を持つ、それはそれは偉い学者様であったのでございます。
  ところがでございます。宝暦事件が起きたのでございます。なんでも。その公家の一人が、日本書紀について花園天皇様に流儀の違う御進講をしたとかしないとかで、公家衆の大きな争いになったと申します。御自分の門人がやったことでございましたので、竹内式部も京都を追放になりました。さらに、明和事件のころ、追放になっているのに京都に立ち入ったとかで、三宅島に遠島を申しつけられたのでございます。式部は、江戸から新島を経て三宅島まで送られ、そこで病に倒れたと申します。
  これが、竹内式部のお話でございますが、この竹内式部が明治・大正の御代に再び日本中の注目するところとなったのでございます。教科書には取り上げられるやら、新潟の入舟地蔵の脇に石碑は立てられるやら、竹内式部祭りまで開催されたのでございます。つまりは、そういうご時世であったのでございます。
  そして、なんと新潟市長様をはじめとする方々が、三宅島まで渡り、竹内式部の追悼祭をしたのでございます。さらに、三宅島で発見された竹内式部の遺骨を分けてもらうために、新潟小学校の君脩一郎校長先生やら市の教育課長様などが船で島に渡り、実際に遺骨を持ち帰ったのでございます。遺骨は四ツ屋町の墓地に立てられた墓に納められたのでございました。
  さて、このころに来た貫二の手紙には、役者は辞めて、噺家に弟子入りしたとありました。何を言っても越後のなまりが残る貫二に、江戸前の噺家などつとまるかどうか、心配したものでございます。貫二が遠くを旅しているような、そんなさみしい心持ちになったのを覚えております。
  遠くへの旅といえば、船や飛行機でございます。このころでございました。小学生が寄付をして、飛行機を作ることになったのでございます。
  それでは、愛国機小学生号のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十話 愛国機小学生号でございます


  それでは、愛国機小学生号のお話をいたしましょうか。昭和6年のことでございました。新潟市の先生方の集まりである新潟市教員会が全国の小中学生に呼び掛けて、飛行機の献納運動を始めたのでございます。これは、お金を集め、飛行機を陸軍や海軍に寄付するのでございます。陸軍へ寄付する飛行機を愛国号、海軍へ寄付する飛行機を報告号と申しました。新潟市教員会が、全国に先駆けて、陸軍への愛国号を寄付する運動を始めたのでございました。そして、新潟市教員会の代表が全国小学校教員会と全国連合教員会に賛同を求めるために上京し、提案が受け入れられ、全国の運動になったのでございました。
  飛行機のことでございますから、十万円以上集めないと、とても作ることはできません。児童一人頭一銭以上の寄付、教員一人頭十銭以上の寄付を予定しておりました。その趣意書が、翌7年の3月に全国の小学校、幼稚園に配られました。もちろん、新潟校にも配られ、全校を挙げて募金運動が始まったのでございます。子供さんたちは、少ないお小遣いを出し合って、募金箱に入れたものでございます。
  その甲斐あって、全国でもたくさんの募金が集まったと申します。そして、昭和7年6月19日、東京の代々木練兵場で飛行機の献納命名式が行われました。「愛国31(児童)号」と名づけられた飛行機は、昼間の爆撃を目的とした全長11メートルの複葉機(主翼が二枚)で、「八八軽爆」と呼ばれておりました。二人のりで、後の席に乗った兵隊さんが銃を打つ役目でした。ただ、高度3000メートルに達するのに25分もかかるようございました。
  さらにこの飛行機は別に、新潟県の小学生、中学生の寄付金だけを使った「愛国57(新潟学生)号」も献納されほど、新潟の募金熱は熱いものがございました。この飛行機は、軽偵察機であったようでございます。高田市の中田が原練兵場で命名式を終えたあと、新潟の空を飛んだと聞かされました。
  高等科に行っていた法も、自分のお小遣いをたくさん寄付したと申しておりました。もちろん新潟校の子供たちは、皆同じように寄付したのでございます。たくさんの愛国機や報国機が、国内や満州の空に舞ったと申します。ただ、そういう軍部の情報は、私どもまではなかなか伝わらないので、本当の話かどうかは分かりかねます。
  満州と言えば、このころ日本と満州の交流が盛んに行われたのでございます。
  それでは、満州のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十一話 日満学童交流会の児童を新潟駅に送ったのでございます


  それでは満州のお話をいたしましょうか。
  もしも「満州熱」という病気があるのであれば、新潟はまさしくその病気にかかっておりました。昭和6年に、「新潟北朝県市命令航路」が開かれると、新潟港は満州の新京と東京を結ぶ最短経路の中継点となるのでございます。同じ年の7月、新潟港の中央ふ頭から初めて兵隊さんが満州へ渡りました。仙台第二師団と新発田16連隊、高田30連隊でございます。家族や郷土の人々、市町村のたくさんの団体に見送らて朝鮮、満州へと旅立ったのでございます。その2か月後、これらの兵隊さんこそが、満州事変へのつながる柳条湖事件にかかわるのでございます。
  新潟が「満州熱」にかかったのは、まさに新潟が満州への最前線基地であり、満州への様々な期待と不安が、その背景にあったからでございましょう。
  学校も例外ではございません。毎年9月18日には、学校で満州事変記念式が開かれておりましたし、ときどき、満州事情講演会が開かれ、4年以上の生徒さんたちが、お話を聞いていたものでございます。当時の君校長も、東京へ行くような気軽さで満州と朝鮮の学校視察のため出張いたしたのでございます。
  満州の新京の生徒さん6人と東京の生徒さん7名を新潟に招き、「日満学童交流会」を開催したのもこのころでございます。新潟校の生徒さんも含めた3000人の子供たちが、満州の生徒さんを中央ふ頭まで出迎えたのでございます。交流会は、新潟師範学校の講堂で開かれ、舞踊や唱歌劇、ブラスバンドなどが披露されたのでございます。
  お蔭様で、私どもの料亭川善は、満州からの御客様や満州へ渡る軍人さんなど、いつにない盛況を迎えます。義理の父から聞いた話でございますが、なんでも新潟の料理は、京都・金沢・東京の料理を基本として、日本海と蒲原平野の食材を生かし切っているのだそうでございます。そこに少しだけロシアの影響を受けているようで、そこが満州に関係した御客様の評判を呼んでいるのではないかとのことでございます。息子の徹人も、満州や朝鮮の言葉を覚えるなど、いろいろやっていたものでござます。川善が盛況なのに、夫の治助はいつも気が晴れぬような顔をしておりました。
  そんな治助が新聞記事を読んでいて、目を長い時間閉じていたことがございました。「真珠湾攻撃」の記事でございます。
  それでは、「真珠湾攻撃」のお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)

第六十二話 真珠湾攻撃の年に名前が変わったのでございます


  「真珠湾攻撃」のお話をする前に、どうしてもお話しなけばならないことがございます。それは国民学校のことでございます。昭和16年の4月1日から、すべての尋常小学校が国民学校に名前を変えたのでございます。新潟校も、新潟国民学校になりました。なんでも、「皇国民の練成」をめざすことが目的とされていたようでございます。この日から、すべての小学校で戦争に勝つための教育が進められたのでございます。
  そうそう真珠湾攻撃のことでございましたね。料亭川善にその報せをもたらしたのは、ラジオでございました。主人と私ども、そして早出の店の者がおりましたが、ニュースでも聞こうと何気なくスイッチを回しますと、軍艦マーチの音楽が流れてまいりました。それに続いて聞こえてきたのが、あの「大本営陸海軍部発表。12月8日午前6時。帝国陸海軍は本八日未明西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という放送でございました。
  店の者は皆、「やったー!」とか「わ!!」大きな声をあげたのでございますが、一人主人の治助だけは、何も言わず、うつうつとした顔でチラッと私を見たのでございます。
  そのうちに新聞の号外が配られました。そこにも、西太平洋と書かれておりましたが、真珠湾という文字はございませんでした。そのため、だれも真珠湾を攻撃したとは分からなかったのでございます。それでも、下々の者の勘と申しましょうか。だれいうとなく、あれは真珠湾のことだとの噂が広がったのでございます。
  真珠湾攻撃の12月8日の次の日、新潟校ではすべての生徒さんが集められ、ラジオから流れる文部大臣の宣戦布告のお話を聞いたのでございました。そして、12月8日にちなんで、次の年から、毎月8日は大詔奉戴日と呼ばれるようになりました。新潟校では、全員を集め、詔書を読み聞かせる式をした後、校長先生の訓話がございました。訓話が終わると、全員で戦争の必勝祈願を行ったあとに、戦争で命を落とした兵隊さんへの黙とうをしたものでございます。また、近くの神社に参拝したり、砂浜を掃除する勤労奉仕などもでございました。
  真珠湾攻撃の次の年でしたか、隣の白山校に東條英機首相様がお越しになりました。新潟校の生徒さんたちも含め、全市の小学生が集められ、訓示をお聞きしたのでございました。
  また、このころ盛んに行われたのが防空演習ございます。
  それでは、防空演習について、とりとめのないお話をいたしましょうか。
  お付き合いいただければの話でございますが。    
  さりながら、お婆も少々疲れが出てまいりました。
  今日は、この辺りで結びとさせていただきとうございます。     (つづく)